「……………」

小さく開かれた唇から白い吐息が棚引く。
特殊な環境の所為だろうか、暦の上では夏も近いのに、夜になると薄着では少し肌寒い。
だが彼女は一向に構わず、月明かりの下、しっかりとした足取りで歩いていく。

『巨人の丘』と呼ばれ、様々な人種が交流し、珍しい動物が営みをしていた場所。
今は、樹を組み合わせただけの粗末な墓だけが、無造作に無数に立ち並ぶ場所。
――――始まりであり、終わりの場所。





最後の戦いで墜落した巨大な『輪』の破片に月光が煌く中、ある区画でマギーは足を止めた。
そこに立ち並ぶのは、五つの小さな墓。
他のものと同じつくりだが、一目でそうだ、と解るように少し目立つ場所に作られていた。

「…………」

此処の主なのだろう。
まだ枯れると言うには早い花が一輪ずつ手向けられている。
小さく微笑みながらマギーは跪き、その横に自分が持ってきた花をそっと置くと、深く黙祷を捧げる。

「こんばんは。遅くなっちゃってごめんなさい…」

その言葉を受け止める者は誰もいない。
名も無き墓標をひとつひとつ愛おしく、そして鮮明に脳裏に刻まれた哀しい思い出に瞳を揺らしながら、繊手でそっと触れる。
この墓の下には、何ひとつ眠っていない。
あの戦いの時に総て消失してしまった。
故人を偲べるものは、己の記憶だけ。
これが自己満足だというのは解っている。
でも、何もかもを風化させたくはなかった。
何も無くても、こうして墓標が有れば確かにその人が存在した証になるような気がした。
だからこうしてこの場所に建立したのだ。
始まりと終り、そして美しい自然に守られたこの丘に。
自分と、自分の愛しい人と、彼の師と、旅の連れと共に。


ひとつは、妹のように可愛がった少女とその姉と母の。
ひとつは、背が高く気の良い青年とその妹と父母の。
ひとつは、この世界を滅ぼそうとした青年とその母の。
ひとつは、この戦いで自分の力が及ばす掌から零れ落としてしまった多くの人たちの。
そして。
ひとつは、愛しい人の母の。

これに関しては、随分彼に不必要だ、と言われたが。


笑顔、困惑、哀惜、憤怒、死への恐怖。
望んで死地に赴いた者。
理由も解らぬまま、戦渦に巻き込まれた者。
彼等が見せたあらゆる表情は色褪せることなく、マギーの中に留まっている。
赤茶の瞳を閉じると、涙が零れそうになって慌てて拭った。

顔に掛かる髪を払うように首を振って、黄金の月を見上げる。
もう一度瞳を閉ざし、風に耳を傾けると自分の名を呼ぶ声がした。



――――マギー―――




















「え?なぁに?」

敷き終わった布団をぽんぽんと叩いて成形するマギーの後ろから、十三歳とは思えないほどの抑揚の無い、
落ち着いた声が呼んだ。

「…聞きたい事が、あるの」
「ん?なんでもお姉ちゃんにどーんと話してみなさい」

胸を張ったマギーに、ウリエルははにかんだ笑みを返す。
だが、すぐに真面目な表情を取り戻すと真っ直ぐに切り出した。

「『鍵』を言うものを知っている?」
「『鍵』?」

口に手を持って行きながら、マギーはその言葉を反芻する。
こんなに真剣な眼差しでウリエルが言うのだ。
部屋の鍵とか、そんな簡単な話ではない。
それに、自分はその単語を知っている。
今まで会ってきた人にそれとなく告げられた単語。
自分や彼に重要な関係が有る事は漠然と解っていたけれど、決して聞かなかった、聞けなかった。
自分にとって、自分の運命を揺らぎかねない重い響きに、知らず足踏みをしていた。
心配を掛けたくなかったから知らない振りをしていた。

きっと全部自分は解っていた。
それが、何か。

聞かれなかったから、答えなかった。
聞かなかったから、答えが無かった。
でも、もうそれも出来ない。

「……ええ。名前だけは。私はミカエルの『鍵』だと。そう言われたわ」
「…誰に?」
「マラクスという私の恩師の弟さんと、ウリエルと再会した時に私を攫った魔術師の人も」

 呼び水。
 聖天使の力を呼び起こす。

そのために必要なもの。

「でも、あなたはそれが何か知ってるわ」

無残な宣告をしようとしている自分の目の前でゆっくりと受け答えをする彼女は、これから自分が何を言わんとしているのかも
知っているようだった。

「なんとなく、だけどね」

小さく、笑う。

「そう…」

聖天使の鍵たる彼女にはこれを聴く権利が有る。
そして、義務も。
だから伝えて、この短い時間の中で彼女自身が結論を出す猶予を与えたかった。
なにより自分が、彼女が聖天使の鍵としての使命を果たす事を望んではいない。
それは彼も同じはず。
『最強の聖天使』と謳われる彼の力は確かにこの戦局を変えるだろう。
だがそれによって失われるものを自分たちは望んではいない。

 …失いたくは無いのだ。

「…『鍵』は私たち聖天使が目覚めるための、生贄」
「……!!?」

びくり、とマギーの肩が震えたが、ウリエルは構わずに続けた。

「聖天使にとって、深い絆を持つ者の生命と血により、私たちは完全に覚醒するわ…」

す、とウリエルは己の額に輝く冠翼の紋章を示す。

「私がお姉ちゃん、ラファエルが妹と父と母、ガブリエルが母をそうしたように…あなたは」
「……………ミカエル、の…」
「そう。あなたの命が絶たれることにより、ミカエルは聖天使として完全に目覚める。
『鍵』とはそういったものなのよ」
「…そう、なんだ」

解ってはいた、想像はしていた。
だけど実際に宣告されるものとは衝撃の度合いが違う。
そして同時に、何故彼女やラファエルが家族を失ったか、理解できた。
ガブリエルが何故命を賭け金に、賭けを持ち出してきたかも。
グラシアが此処では命をとらない、と含みを持たせた言い方をした事も。
マギーの中で総てが繋がる。



 ――自分が死ねば、ミカエルはこれ以上傷つくことなく、この戦いも終わるのだろうか?――



 それなら、それもいいかもしれない。

…そう、思ってしまった。

ふぅっ。

大きく…肺の中の空気を総て吐き出して、新しい空気をめいいっぱい吸い込む。

 死にたくない。死にたくなんか無い。
 妹が出来た。好きな人が居る。
 だけど。
 …その必要が有るとしたなら。
 私の生命でみんな助かるなら…

彼女の赤茶の瞳に揺ぎ無い焔が宿る。

「…………マギー?どうしたの?」
「…あっ、ううん、なんでもないよ。…ただ、驚いただけ」
「……そう」

真っ直ぐにマギーの瞳を見たウリエルは、それだけ答えた。
嘘を吐けないタイプだと、よく言われた。
すぐに、顔に出るとも。
自分で解らないだけで、顔に出ているのかもしれない。
ましてウリエルは魔術師なのだ。
何時かのガブリエルのように、魔術で心を読んで自分の考えを知っているかもしれない。
そう思いながらも、それでもマギーは出来るだけ平静を装って笑った。
…ぎこち無いとは解っていたけれど。

「本当にびっくりしちゃった。私の命がそんなふうに、なんて…重要な事かもしれない、とは思っていたけれど…」

気が抜けたようにベッドに腰掛けると、きしり、とスプリングが軋む音が聴こえた。
二人の間に沈黙が下りる。

「……ねえ、ウリエル?」
「なに?」

暫くは目を閉じたまま、天井に顔を向けていたマギーは、ゆっくりとウリエルへ視線を戻す。

「どうして、私にこの事を教えてくれたの?」
「それは…」

もっと動揺してもいいだろうに、向けられたその穏やかな眼差しと雰囲気にウリエルの方がたじろいだ。
やはり彼女は知っていたのだ、と思わずにはいられなかった。
魔術など使う必要が無いほどに、真っ直ぐで純粋で強く。
だからこそ、ガブリエルを除く三人の聖天使は彼女に惹かれた。
強く、強く。

「……あなたの、命だから。知る義務も、聴く権利も有る。ただ、それだけ」

それだけじゃない事くらい解っている。
でもそれをはっきりと伝えられない自分はミカエルに似ているような気がした。
損な性格だとも思うけれど、足りない言葉も想いも、彼女はその両手で零さず受け止める人だという事も知っている。

「ありがとう。ウリエル」

ただひたすらに赦しを請うていた心を溶かした。
これだけでウリエルには十分だった。
この微笑みも、声も、想いも…この存在を失わない為なら、何だって出来る。
何だって成し遂げて見せる。

「さあ、そろそろ寝ようっか。あんまり遅くなっちゃうとまたミカエルに怒られちゃうし」
「そうね…」
「でも、正直言うと、まだどきどきしてるから。すぐには眠れそうに無いけれど」

マギーの決意がウリエルに悟られたように、ウリエルの決意がマギーに悟られる事は無かった。
おどけて肩を竦めるマギーに、出来るだけ優しくウリエルは答えた。

「すぐに、眠れるわ。何も、心配する事なんて無いのだから」




















「あの日のうちだったよね。ウリエルが行ってしまったのは」

恐らくは自分に催眠の魔術を施して。
たった一人で、何も言わずにガブリエルの下に行ってしまった。
そして、自分の腕の中で微笑みながら逝ってしまった。
込み上げる嗚咽を飲み込んで、マギーは止まっていた指を再び動かす。
ひとつひとつ、しっとりと夜露に濡れだした粗末で大切な墓標を。

「『鍵』は聖天使を目覚めさせるための生贄、か…」

白く棚引く吐息はすぐに闇に混じり融け消える。
ガブリエルの母も、ウリエルの姉も、ラファエルの妹もそうして、死んだ。
ただ、ミカエルの『鍵』であった自分だけがこうして生きている。
みんな良い人だっただろうに、みんな彼女らを心から想っていただろうに、みんなもっと生きたかっただろうに。
『神如き者』と謳われたミカエルの鍵という理由だけで、自分だけは死からも救われた。
今もこうして生きていて、彼女らの墓前に立っている。

「一度死んだのに、私だけがこうして生きているなんて変だよね。でも、ごめんなさい、は言わないわ」

強い、確固たる意思を持った声が凛と闇の中に響いた。

「もう、みんなの命は取り戻せないけど。でもそれでも私が生きているのは役目がまだ有るからだと信じてる。
闘いの傷が癒えていないこの世界で、苦しんでいる人たちに手を差し延べられる事が出来るように。
私は、生きる。
どんなに辛くても、そんなに苦しくても、そんなに悲しくても…精一杯生きるのが、命あるものの義務だと思うから。
だから、お願い。そこから見守っていて…」





目頭に浮かんだ涙をそっと拭い、踵を返したマギーの後ろで。
手向けた花が風に遊ばれ、小さな葉を揺らした。
手を振るかのように。








7年にも及んだ「悪魔狩り」。
雑誌の変更、幻の第一話など、タイトロープを渡り続けてきたこの作品の無事連載終了を記念しての、
話と相成りました。

いやもう、マイナーだろうが、ケーキ屋におけるカツ丼と言われようが、好きでした。
絵柄が好きだった事が大きいですけど、中身だって良い作品だと思います。
随分と考えさせられ、足りない所は妄想で補ったり、と色んなところで飽きの無い作品でした。

これは「寂滅の聖頌歌編」最終話以降の話で回想は同4巻くらいでしょうか?
聖天使の『鍵』として、三人は亡くなってしまったのに、自分だけは生きている。
それへの葛藤と乗り越えて生きていくマギーの意志を書き出したかったのですが…
上手く行ってるのやら行ってないのやら…
長年読んできたので科白回し等には迷いませんでしたが、やはり初書き。
未熟さは否めません。

この話は何時も素敵な悪魔狩り(ミカマギ)語りをして下さる咲良朔さまと、同志の春香さま、はよわかさまへ捧げます。
…よ、宜しければ、の話ですが…

因みにタイトルに全く意味は有りません。苦し紛れ、です(苦)


20050317UP



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