空気が澱んでいる。
悪意で前も見えないほどに。
そうとでも例えたら良いのだろうか。
サプレスの最下層。
悪魔達が好む不快な空気、不快な魔力、不快な空間。
この精神体には永遠の場所で。
何時からとも、何時までとも解らない戦いを繰り広げてきた。
なんのために。
食べる事も休む事も眠る事さえ忘れ、召喚術を組み立てながら、思い出す疑問。
そして、それは相手の痛烈な攻撃、或いは彼女の優しい癒しでふと思い出す。
そう、必ず帰ると言ってくれた。
僕たちはその何時になるかも…存在するかどうかも危うい希望に縋って戦い、生きている。
望みを繋げなければ、この戦いは終わる事など無いのだ。
そして、帰って来てくれる彼女の為に、この悪魔を逃がす事も、まして死ぬ事などできない。
約束をしたから。
あたしたちの好きなあの優しい笑顔は、罪の意識で曇っているだろうから。
あたしたちを残して行ったことをただひたすらに後悔しているに違いないから。
だから。
大丈夫だったでしょう?と彼女の前で笑いたい。
ただ、そのためだけに死ぬわけには行かないんです。
そのためだけに。
突然、澱んだ空気の流れが清涼になる。
突然、濁った世界に光が差す。
眩しい眩しい…それは懐かしい太陽の光にも似た、それ。
解った。
瞬時に。
それが何か。
振り返らなくとも。
ただ、どうしてか涙が止まらない。
凛、とした大人びた声が降ってきて。
それを聞いた途端、涙が溢れてきて。
その声は懐かしくて、戦いで荒れたあたしたちの心を満たしていく。
今、此処に溢れていく光のように。
二人を返してもらいに来たわ。
その声を仰ぎ見た大悪魔の顔が確かに歪んだ。
今まで僕たちを相手に遊んでいたのだろう。
見た事も無い強大な召喚術を練り上げていく。
あんなものを喰らえば、怪我などでは済まない。
懐かしい声もまた、召喚術を紡ぐ。
それは、ロレイラル・シルターン・サプレス・メイトルパ・リィンバウム総ての言語が交じり合った不思議なコトバ。
あたしは思わずその声の主を見上げる。
淡々と紡がれる、抑揚の無い冷たさの漂う声。
でも、あたしは知らないふりをしてしまった。
それは、この戦いの所為だろうって。
そう、思い込んで。
一足先に完成した大悪魔の召喚術が彼女を飲み込む。
だが、それはすぐに切り裂かれ、彼女が放った白い魔力に大悪魔が飲み込まれる。
この、サプレス総てを飲み込むような轟音と地響きを立てて。
有り得ない。
精神体の悪魔を、しかもあんな強大な魔力を持つ大悪魔を、このサプレスの世界で。
こうまで破壊する力はなんだ?
なんの力だ?
そもそもあんなものが人間に扱えるものなのか?
トリス!
あたしたちの声が綺麗に重なる。
呼びたかった、ずっと待ち続けた名前と姿。
その彼女は未だに高いところで、大悪魔が消えた先を見ている。
だから、あたしたちはもう一度呼ぶ。
そのためだけに。
僕たちは戦い続け、生き続けてきたのに。
君はそれより…僕たちが想像など出来ないほどの思いをしたのか。
光の羽を震わせ、一転悲しみの涙を零す彼女の背を撫でる手は、その華奢な身体にはあまりにも無骨。
血の代わりに電気が通い、冷たく重く無機質で。
くるくるとよく動いていた、大きな淡紫の目の片方は完全に色と光を失い。
長い前髪で隠されたもう片方にも、僕たちを映すほどのあの力強い光は残っていなかった。
久し振りね、と笑う笑顔にも、もはや明るさやあどけなさは欠片も無く、哀しみだけが覗く。
あたしたちが。
そんなにあなたを追い詰めたの?
聞きたかったのに、聞けなかった。
遅くなってゴメンね、と繰り返す言葉に、必死になって首を振るけど、何も声に成らないのがもどかしくて。
ただ、ひたすらに大きくて冷たい手を握ってた。
こんなにあなたに触れても、なにも読み取れないのは、あたしの力が弱くなってるの?
あなたが見せてくれないの?
ねえ、答えて?
さあ、行って。
厳しい目つきで彼女が見下ろした先には、無数の悪魔たち。
そうだ、大悪魔は倒したんだ。
もう、此処にいる必要など無い。
逃げて、再び封印を施せば良いだけの事だ。
一緒に行きましょう?
その言葉に彼女は困ったように微笑んだ。
さっきのあたしの力、見たでしょう?あたし、強くなったのよ。あんな奴ら蹴散らすから。
それに、今度はあなたたちが先に行く番。
だから、行って。
あたしたちは踵を返す。
懐かしい、暖かな光が溢れる場所に。
大好きな世界に。
大好きな人たちがいる世界に。
大好きな人たちと。
ごぅん。
サプレスの空間から戻った瞬間、遺跡が自動で起動を始める。
これはあの時彼女が使った封印じゃないのか?!
待て!まだ中に彼女が!
慌ててコンソールを叩くが、完全に書き換えてしまったのか、すぐには止められない。
そのまま機械内部に接触を図るが、ことごとく僕を拒絶する。
…これは君がしたことなのか?!
なぜ、どうして!
だぁん!
思い切り画面を殴りつけると、後方で彼女の驚いた気配が伝わってきた。
…止められないんですか?
おそるおそる聞いたそれに、彼は一瞬迷い、そして頷いた。
目の前が真っ暗になるけど、もう一度門に向かう。
もう、殆ど閉まっていて、入る事ができない。
いや。どうして?どうして?
せっかく三人でまた会えたのに。
生きて会えたのに。
約束じゃ、なかったの?
閉じられ、幾重にも封印を施される門を叩きながら、あたしは必死に名を呼んだ。
トリストリストリストリスっ!お願い、返事をして!ここを開けて!帰ってきて!
ねぇ。
あたしは調律者なんだって。
悪魔と契約をしてまで力を欲しながら、裏切り、仕返しを恐れて召喚兵器を作り、
その上、異世界の仲間までも裏切った。
そんな一族の末裔なんだってさ。あたしって。
笑っちゃうよね。
でも、あたしも確実にその血を引いてるんだ。
二人を助けるためなら、何を犠牲にしても構わない。
そう思ってたのよ?
二人を助けるために、あたしは先祖と同じ事をした。
あたしの血も魔力も命も。
なんでもくれてやるから。
あなたたちを助ける力が欲しい。
それ以外は何も願わない。
叶ったから。
力も手に入れた。
あななたちも助けられた。
あなたたちを、こんなにも傷つけた彼も永遠に消えた。
だから、もう何も要らない。
大悪魔を滅した時とは比較にならない、巨大な力を手のひらに小さく小さく収束させる。
それに、見たでしょう?この力を。
あたしはもう人じゃない。
人間でもなくなって、もうすぐにでも動かなくなるあたしを見られたくなかった。
だから、ごめんね。
…約束、破って。
ありがとう。
たくさんたくさん助けてくれて。
あたしを信じて待っていてくれて。
生きて、いてくれて。
最期まであたしの名を呼んでくれて、泣いてくれて。
でも、笑ってくれるともっと嬉しいな。
あたしも二人の笑った顔が大好きだったから。
…わがまま、かな…?
ねぇ?ネス、アメル?
二人の笑う顔を想像するだけで、自然と温かな笑みが零れた。
ゆっくりと。
胸に手のひらを当てた瞬間、完全に形を失った。
姿も命も魔力も想いも。なにもかも。
宿業ルートを見ていて、なんとなく温めていたメモをアレンジしての即興書き。
結局上手く使えないような気がするので、此方に保存。
こんなの置いてたら、どんな反応されるんだろう…(怖)
少し手法を変えてますが、大悪魔を滅した召喚術は「其のさん」でマグナが使っていたものと同一のもの
だったりします。
ただ、リスクが高く半端じゃない威力になってますが。
なんだか先が見えない、救いのないネタですが、こういうのでも書き終えれる力が付くといいなぁ、と思うわけです。
20050520UP
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