ふあぁっ。



堪えきれなくて大きなあくびが出た。
曲げっぱなしだった腰や腕を思い切り伸ばして、柔らかな緑の絨毯の上へハヤトは身を投げ出した。

「ハヤト。行儀が悪いです。それに、まだ私の話は終わっていません」
「あ、はは。ごめんごめん、クラレット」
「…もう…貴方が室内より外の方がいい、と仰るから此処まで来たんですよ?
それなのに、投げ出して貰っては困ります」
「悪かったって。でも、今日は何時もよりだいぶ読み進めただろ?」
「…何時もよりは、ですね」
「…………クラレット…」

手厳しい台詞にハヤトは寝転がったまま、クラレットの手の中から彼女が持っている本を取り上げる。
それはマーン三兄弟から借りた一冊の分厚い本。
豪奢な装飾を施されたその本は、この世界リィンバウムの成り立ち、召喚術の起源、産業の変革、人々の暮らしや信仰など、さまざまな事が記されている。
あの頃…此処に来てから魔王を倒すまで。
目まぐるしい日々の移り変りで、この世界をちゃんと知る余裕が無かった。
そして、何も知らないままこの世界を去ったはず…だった。
彼女が自分の世界に、自分を追いかけて来てくれるまでは。
リィンバウムの文字をぼんやり目で追いながらハヤトは思う。

何時の間に。
自分が居たあの世界よりも、此処の方が大切になっていたのだろう。
ただ、はっきり解るのは。
ボロボロの姿でやって来た彼女を見た瞬間、心に溜まっていた疑問や悩みが総て吹き飛んだ事。

 そうだ。俺の願いはただひとつ。
 彼女と一緒に居たいんだ。
 あの世界で。
 ずっと、一緒に。
 その為なら、もう、二度と帰れなくても構わない!

本当に、此処に帰って来た事を後悔しない、なんて保証はできない。
出来ないけど、自分で選んだ道。
自分の世界に帰る事より、ずっとずっと強く願ったものだと自覚しているから。
だから、知りたかった。
これから自分がこの世界で生きていくために、何が出来るか、この世界の仕組みを。
今までは、ただ無我夢中で暮らしてきただけの毎日で、この世界の事を殆ど知らなかったから。
マーン三兄弟や彼女に頼んで、少しでも知識を得たかった。

 それは本当、なんだけど。

でも、勉強が苦手、という性質はどうにも変わらなかったみたいで、小難しい本を読んでいるとどうにも眠くなる。
手の中の本をぱたん、と閉じて、大の字になった。

「…なあ、クラレット?」
「…はい?」
「この世界は、綺麗だよな」
「え……?」

意外な台詞にクラレットは一瞬言葉に詰まり、それから、そうですね、と小さく呟く。
二人は同時に空を見上げた。
ハヤトのお気に入りの場所のひとつ、アルク川。
此処で寝転がって見上げる空と視界を遮るものは何も無い。
ビルも、電線も飛行機も何も。

「俺は…自分の世界でこんな景色を知らなかった。君に逢わなかったら、今でも知らないままだった。ありがとう」
「私は…此処が自分の世界なのに、こんなに広くて綺麗な事を知らなかったんです。
貴方に逢わなかったら、きっと今でもその良さを知らなかったはずです。ありがとうございます」

お互いに同じような言葉を交し合って、笑う。
ひとしきり笑ってから、目を閉じると、途端に睡魔に引っ張られた。
このまま寝てしまっては、あとでクラレットに長々とお説教を喰らうのは目に見えている。
でも、眠い。もっと正確に言えば、心地が良すぎる所為だとハヤトはぼんやりと思う。

 なんで?どうして?
 なんでもどうしてもないだろ。

ハヤトは狭くなる視界に眩しい空の蒼を映す。

 今の今まで考えてたことじゃないか。

「ハヤト!」

ちょっと怒ったようなクラレットの声を耳にしながら、構わずにハヤトは目を閉じた。








「……もう。教えて欲しい、と言ったのは貴方じゃないですか」

クラレットは小さく首を横に振ってため息を吐く。
彼の手から落ちた本を拾い上げて、自分の側に置いた。

「真面目なのか、そうではないのか…私には図りかねます…」

教えて欲しい、と言ってきた彼の顔は本当だったし、自分の言葉に耳を傾ける仕草も本当だった。
でも、こんなにもあっさりと本を手放して眠ってしまう彼を見ると、ちょっと自信が無くなる。

「私の教え方は、上手くないんでしょうね…」

幼い頃からずっと、無我夢中で習ってきただけ。
それを誰かに伝える技を自分が持っている、とは到底思えない。
しかも、基本的に勉強は得意じゃないんだ、なんて自分で言っている人にとっては。

「…これでも、一生懸命やっているつもりなんですが…」

その言葉を聞いて欲しい人は既に、微睡みの中。
ほぅ、と溜息を吐き、本を膝の上に置いて、クラレットは空を見上げた。
綺麗だ、と彼が褒めてくれた世界、その空。
束の間覗く事が出来た彼の世界は、ロレイラルの技術が突出して発展している、と感じたけれど、どこか色褪せ、どこか閉塞的な世界にも見えた。
『彼』という存在を育んでくれた世界だから、気付かなかっただけで素晴らしさも有る筈なのだ、と解ってはいるのだけれども。

「…本当に貴方はこの世界に帰ってきて良かったのですか?」

帰りたい、とずっと願っていた。
自分も少しでも役に立ちたくて、その術を求めて、あらゆる本を読み、新しい召喚術を無数に試した。
誓約者の力を手に入れ、ようやく願いを叶えた、というのに。
彼の側に居られるなら、捨ててしまっても構わない、と思ったこの世界を彼は望んだ。

 自分などと一緒に、この世界で…

その言葉がどれほど嬉しかったか、彼は半分も解っていない気もするけれど。
クラレットはあどけない寝顔を覗き込んで、ふわり、と微笑む。
優しさのような、穏やかさのような、温かさのような、甘さのような…なんとも形容し難い『何か』が心を埋め尽くしているのが自分でもはっきりと解る。
まだ慣れないそれがほんの少し痛くて、でも抗えないほど心地好くて。

 これが『幸せ』というものなのでしょうか…。

片隅で、思う。

本を傍らに置いて、意外と柔らかい髪質のハヤトの頭を抱えて、そっと膝の上に乗せると、見ているだけでは解らない重さと温かさが伝わって行く。
眠る彼を優しく見守る彼女の唇から、不意に漏れた音。
それはリプレが良く口ずさんでいる歌。
洗濯物を干している時、台所に立っている時、昼寝をするラミの側で、幾度となく聞いた歌。
リプレの声と緩やかな曲調がすごく似合っていて、聞き惚れた歌。
完全に覚えてしまったその歌は、クラレットの唇から零れ、空へと融けていく。
繰り返し繰り返し繰り返し…彼が起きていたなら、恥ずかしさの方が勝って歌えなかったであろう歌は、飽く事無く繰り返される。
まるで、子守り歌のように。








「ん……っ??!」

うっすらと目を開けて、一番最初に見たもの…しかもその近さに、声を出す事も飛び起きる事も出来ず、逆に硬直してしまう。

(くくくく…クラレット???)

何が何だかさっぱり解らない。
解るのは、何故かクラレットの顔が息が掛かりそうなほど間近にある事だけ。
ハヤトの顔が瞬時に、耳までも赤く染まる。

(な、なんだ?どうなってるんだ?)

眠気など一発で吹き飛んで、代わりに嫌な汗が噴き出してくる。
じっとりと汗ばんだ手で草を掴み、どうにか身体を横へずらそうとするが、腕が震えていてどうにも上手く行かない。
それでもどうにか脱出したハヤトは、自分がどのような状態だったのかを知り、金魚のようにぱくぱくと口を開けて喘いだ。

「も…もしかしなくても俺、クラレットに膝枕されていたのか…?」

言葉にして、さらに頬に熱が上がる。
頼んだ覚えは無い。だから、彼女がしてくれた、と考えるのが妥当だろう。

(だ、だって、こんな事されたこと無いし、誰だってびっくりするだろ?)

自身に言い訳などをしつつ、膝枕をしたまま眠ってしまったクラレットの顔をそっと覗き込もうとして、少し身体が傾いだ彼女に気づき、慌てて支えた。

「えーー…っと」

細い肩を抱いて、止まる事数秒。
それから、どうしようかと考える事、更に数十秒。
取り敢えず、自分の肩に彼女の頭を乗せてみる。
が、体温や吐息や甘い香りが近すぎて、どうにも落ち着いてなんか居られない。
結局、今までして貰っていたように、彼女の頭をゆっくりと自分の右膝の上に置く形に辿り着く。
これはこれで、経験の無い構図で、ハヤトは曲げたままの左膝に肘を付いて大きくため息を吐く。
ちらりちらり、と横目で一向に起きる気配の無い寝顔を見つめているうちに、心の余裕が出来てきたハヤトはくすくすと笑い出した。

「…そういや、こんなのも初めて、だよな」

毎日毎日、一日の殆どの時間を共に過ごしているというのに、知らない事が幾らでも有る。
照れや恥ずかしさは何時の間にか消え去り、穏やかな気持ちで彼女を見つめている事をハヤトは自覚していた。
そっと髪に触れてみる。
艶やかで滑らかで引っかかりの無い、紫の髪を撫でてみたり梳いてみたり、指に絡めてみたり。
そんな単調な事が胸が痛いほど嬉しくて。

 そうだ。俺の選択は間違っちゃいなかった。

「…サンキュな、クラレット」

 俺を呼んでくれて、俺の世界にまで来てくれて、俺の側に居てくれて。

彼女に会わなければ、こんな満ち足りた想いも手に入らなかっただろう。

 『幸せ』というのは、こんな事なんだろうな。

片隅で、思う。





耳を澄ますと、なぜだろう、何処からか歌が流れてくるような気がした。





「…………ん。ハヤ、ト…」

不意に名前を呼ばれ、起きたのかと思い、視線を空から彼女に移したハヤトは再び顔を赤く染めて失笑する。

「…なんだよ。寝言なのか?」

ん、と少し身じろいただけで、変わらず、すうすう、と寝息を立てるクラレットを髪が触れる距離で覗き込む。
まるで微笑んでいるようにも見える寝顔。

「何時も迷惑掛けてるから、こんなのもいいかと思ったけどさ。
夢の中まで俺が出てるのかよ?……怒られてないだろうな、俺」

有り得そうだ、と勝手に想像して、微妙に勝手にヘコみながら。
満ち足りた空気と時間を満喫する。





君と二人で。









今見ても、何だかとても恥ずかしい話です(苦笑)
2004年に書いた一周年記念&アンケート1位記念のフリーSSでした。

某Kさんとお話して出てきたネタであり、「穏やかに、緩やかに」のバージョンアップ版と言うか…
「膝枕」「歌」「髪を触る」「寝言」が課されたお題でした。
もう、一生懸命書いたのですが…
どう言っても、恥ずかしい話なのには変わり無いですね(汗)

クラレットさんは天然体質、ハヤトはどきどきしながら。
その差をちょっと感じていただけると嬉しいですねっ♪


20040603UP



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