時折強い風が吹いている。
がたがたと窓を揺らし、ざわざわと樹が風に従い靡いている。
「本当に強い風だな」
すっかり日も落ちてしまったこの時間では、
外の状態がどうなっているのか、よく分からないが、
目を凝らすと、風が吹く度、木の葉が飛んで行くのが見えた。
花見好きのエドスの提案の元、
今年もまたアルサック見物へと洒落込んだ。
総勢三十名近い仲間達に加え、
今年はあのマーン三兄弟までもが加わったのだ。
大盛況、というよりも、大混戦、大混乱といった形容が相応しい、
尋常ではない盛り上がりを見せた。
大波乱のうちにやっとの事で区切りをつけ、
疲れ切って帰って来たのは少し前の事。
「今日が花見で正解だったよな」
明日になれば、あの見事なまでに満開だった花はほぼ散ってしまい、
代わりに新緑の葉がアルサックの樹を彩っている事だろう。
ただ何となく、窓の外を見ていたハヤトはノックの音で振り返る。
「はぁい?」
「ハヤト?私だけど」
「…リプレ?」
入って来たリプレは、落ち着き無く部屋の中を見回す。
どうかしたのか?と尋ねる前に、彼女の方が先に口を開いた。
「クラレットを知らない?」
「クラレット?」
「てっきり、貴方の部屋に居るのかな、なんて思ってたんだけど…」
「…帰って来てからは会ってないけど。クラレットがどうかしたのか?」
「うん…」
頬に手を当て、少しだけ言い澱んで。
「お茶を淹れたから呼びに行ったんだけどね。居ないのよ、彼女」
「え?他の部屋は?」
「みんなに聴いて回って、此処が最後だったんだけど…」
何処に行ったのかしら?
その言葉が終わらないうちに、
上着を引っ掴んだハヤトは部屋の外へと走り出していた。
「俺、ちょっと捜して来るから!みんなには心配しないように言っといてくれ」
「あ!ハヤト!?」
あっという間に消えてしまった後ろ背を何時までも見送って、
リプレは、ほぅ、と溜息を吐いた。
「……いいなぁ」
分かってはいる事だけど。
「………ぅわっ?!」
外に飛び出した瞬間、横殴りの風を受け、
ハヤトは思わずたたらを踏む。
「こんなに風が強いのに、本当にクラレットは外に出たのか?」
飛来する木の葉たちから腕で顔を守り、ハヤトはがむしゃらに走り出した。
特に当てなんか無かったが、ゆっくり歩いてなんかいられない。
知っている場所へ、とにかく行ける場所へ。
きっと、何処かに居る筈だから。
ざああああああっ。
太い枝が撓り、風に弄ばれる度、薄い桜色の花びらが闇夜の空を白く彩る。
白と黒の狭間に、見慣れた紅色。
長い青紫の髪を押さえて、中空を見上げている後ろ姿。
「…………っ」
商店街や工場区、市民公園付近を走り回り、
咳き込みそうなほど上がった息は、
呼びかける音すら許さず、ハヤトはただじっと、その光景を見ていた。
声を掛けてはいけない。
何故だか、そんな気もしたから。
呼吸が整っても、見ている事しか出来なかった。
(クラレット……)
物静かで、おっとりとした少女。
人付き合いが少し苦手で、人の一歩も二歩も後ろから、はにかみ、
微かに笑う仕草が印象的だった。
儚ささえ覚えるほど。
硝子細工のような儚ささと脆さを抱えた、精神と身体と。
強く偽る度に、目に見えない傷と罅が彼女自身を蝕んで行く事に
気付いたのは何時だっただろう。
そんな彼女を守りたい、と心から願ったのは。
一年程前、元の世界に帰った自分を追いかけて来た彼女。
自分の世界を捨て、危険も顧みず、ぼろぼろの姿で現れた彼女の微笑みに、
ハヤトはようやく気が付いた。
元の世界に、居るべき場所は在ると思っていたのに、
本当はそうではない事を。
あの時、彼女が言っていた様に、
彼女の隣りに自分が居る事こそが真実なのだ、と。
世界など、何処であろうと関係無い事に。
だから、帰って来た。
必要としてくれたこの世界で、彼女と共に在る為に。
「………」
身じろぎもせず、立ち尽くすクラレット。
初めて逢った頃と変わらない、華奢な身体を強風に晒して。
放っておけば、夜の闇に溶けてしまいそうだった。
白い嵐に攫われてしまいそうだった。
「…………………っ!!」
思わず手を伸ばして、駆け寄ろうとした瞬間。
今迄で一番強い風が二人の間を駆け抜けた。
「くっ…!?」
闇と視界をアルサックの花びらが白一色に染め上げる。
飛んでくる無数の花びらを乱暴に払いのけながら、
視線を元に戻したハヤトの心臓が、
どきり、と嫌な音を立てて跳ね上がる。
目を見開き、その場を凝視する。
だが、その場所にクラレットは居ない。
たった数瞬目を離しただけで。
音を立てて血の気が引いていく。
言いようの無い不安に、思わず胸を強く掴んだ。
早く、あの手を掴めば良かった。
取り返しのつかない想いに囚われながら、ふらり、と一歩前に出る。
「………クラレット?」
彼らしくも無い、震え、消え行きそうな呟き。
「クラレット?」
乾いた、声。
「クラレット!?」
たまりかねず吐き出された叫びは、切り裂かれる響きを孕んでいる。
暗転しそうな意識と脳裏に光を翳したのは、涼やかな声。
「ハヤト?」
左手横から不意に聞こえた、自分を呼ぶ声に、
びくり、と肩を震わせて、慌てて顔を向けた。
「どうか…されましたか?」
何時の間にこんな近くに来ていたのか、
手を伸ばせば容易に届く距離に彼女は佇んでいた。
心配そうに、髪と同じ色の瞳に色濃い影を落として。
「…クラ、レット…?」
彼女の姿を視界に納めながらも、何も考えてはいなかった。
ただ、無意識のうちに伸ばした両の手を彼女の背に回すと、
強く引き寄せていた。
「…あ、あのっ!?」
瞬時に耳までも赤く染め上げ、硬直したクラレットは、
それでも何とか声を絞り出す。
「………よかった。ホントに」
「……ハヤト?」
長い時間強風に晒されていた所為か、
驚くほど身体は冷たい。
しかし、その奥から伝わってくる温かさと質感に、
ハヤトは安堵の溜息を漏らした。
「君が消えてしまったのかと思った」
「……すみません」
額に当たる肩が震えているのを感じて、クラレットは呟く。
「謝る事なんかないよ。俺が勝手に早とちりしちゃったんだから」
「ですが…何も言わずに此処に来たのは私ですし…」
心配される事をしたのは、自分の方。
「そう言えば、クラレットは此処に何をしに来たんだ?」
「!!」
腕の中で彼女が大きく動揺するのを感じたハヤトは、
彼女を解放する。
一歩下がり、落ち着き無く躊躇った後、
ゆっくりと見上げてきた瞳に、思わずハヤトは息を呑んだ。
「…………クラレット?」
光の無い、ただ綺麗なだけの紫の瞳。
虚ろに映るのは、、哀しみと怯え。不安と恐怖。
…そんな良くないものを連想させる。
「…昼間、此処に来た時、思い出してしまったんです…」
最初に出会った頃を嫌でも思い出させる、淡々とした冷えた物言い。
感情など、抜け落ちてしまったかのような。
「貴方が居なくなってしまった日の事を…」
ふと、気付いてしまった。
一番思い出したくなかった、あの日の想い。
「……っ!」
愕然として、空を見上げる。
そして気が付く。
「分かっては…いるのです。
ですが、どうしても不安で、そんな事は無い、と自分に言い聞かせていました」
だからこそ、あの光景を彷彿とさせるこの場所で、断ち切りたかった。
未だに絡みつく、この恐怖から。
「貴方がまた…消えてしまいそうで。私はまた…置いて行かれるのではないかと」
何時の間にか風は止み、時折ひらひらと花びらが舞う。
満月を後ろに。
光という名の雪が。
送還術という名の希望と絶望が。
舞い降りた夜の出来事を。
(あ………!)
思い出した。
そう言えば、昼間此処に来てから、ずっと彼女は天空を仰いでいた。
時折自分を見ては、胸を撫で下ろした様に小さく微笑んでいた。
何処か痛い笑みだと、感じていたのに。
どうしてその時に、声を掛けてやらなかったんだろう。
どうしてその時に、気付いてやれなかったんだろう。
「俺は…」
真っ直ぐに向き合う。
「今、初めてあの時の君の気持ちを知った気がする。今まで気付かなくてゴメン」
「私こそ、すみませんでした。貴方に、余計な心配をさせてしまいました…」
視線がゆっくりと落ちる。
「……クラレット」
細く長く息を吐き、紫の髪に指を絡ませると、
弾けた様に上がる、髪と同じ色の瞳。
「約束、するから。俺はもう、何処にも行かない。君に黙って消えたりなんかしない。
君が望んでいてくれる限り傍に居るから。…君の傍が俺の居場所だから。
だからもう、そんなに哀しい顔をしないでくれよ…」
痛い、と思った事が有る。
荒野で初めて出会った彼女が、フラットで共に暮らしたい、
と申し出てから暫く後の事。
笑うどころか、他の感情もあまり表さない彼女を、
警戒しているからだ、と思い込んでいた。
例え、稀に笑う事が有っても、遠慮がちだったり、ぎこちなかったり、
何時も不自然さが際立っていても、
それが原因だと思っていたから、仕方ない、と口を噤んで。
まるでそれがいけないみたいに、微笑みさえ噛み殺した彼女を見た時、
何故か泣きたくなった。
己の事柄の様に心が痛み、強く強く胸に爪を突き立てた。
笑えばきっともっと、可愛いのに。
本心からの笑顔を見てみたい。
その時から、ずっとそう思っていた。
あの頃よりはずっと、笑ってくれるようにはなったけれど。
まだ、此処で彼女の笑みを見ていない。
そして、今彼女の笑みを奪ったのは、他ならぬ自分。
「………すみません」
「だから謝らなくてもいいって」
謝らなくてはいけないのは、自分の方なのに。
「ハヤト…」
勤めて明るく振舞った口調は、真摯なそれに掻き消された。
「私は…願ってもいいですか?
貴方の傍に居たい、と。貴方が傍に居て欲しい、と。
貴方が望んでいてくださる限り、私は貴方の傍に居る…約束を、しますから」
どんなに約束を重ねても、この想いは消えない。決して。
だけど、和らげる事は出来る筈だから。
「……約束、だな」
くすり、と笑い、差し出した小指に、
躊躇いながら同じ指をクラレットが絡ませる。
「…はい」
頬に微かな朱を帯びて、ようやく唇に笑みを浮かべたクラレットに、
ハヤトは内心で溜息を吐く。
「それじゃ、帰るとするか。今頃、リプレがかんかんだったりしてな?」
漏れた笑みは柔らかくて、優しい。
彼女を見つめる、何時もの眼差し。
「…あ!」
「ちょっとお説教が有るかも知れないけど…」
「す、すみません!私の所為で」
「ちゃんとリプレには謝らないとな。君の事、心配してたから」
「はい。それでは早く帰らないと」
「待ってくれよ」
「……ハヤト?」
急ぎ足になりかけた足を止め、後ろを振り返ったクラレット。
見惚れたのは、穏やかに細まる黒瞳。
「………………」
「いいじゃないか。ゆっくり行こうぜ?」
此処まで来たら、もう一緒だよな?
苦く笑った顔さえ、優しさが溢れている。
「余計に怒られるかも知れないけど。でも、君と話をしながら帰りたいと思うし?」
息せき切って走ってきたこの道を、
他愛もない話をしながら、ゆっくりと歩きたい。
「はい…」
息をする事さえ、忘れてしまいそうな、真っ直ぐ自分を映す瞳。
「あの…っ、え…と……そ、それでは………」
真っ直ぐに見つめ返す事が出来ず、
合わせた自分の手に視線を逸らせたクラレットは、
其処に魔力を集中させた。
「え…召喚?」
何でいきなり、こんなところで?
そう言う暇も無く、生まれ出でた青い光から召喚されたのはポワソ。
「???」
彼女の真意が掴めず、ただただ目を瞬かせたハヤトに、
速い鼓動を誤魔化す様に微笑んだ。
「少しだけ、光っているでしょう?」
「…え?あ、うん……本当だ」
この世界の月と同じ色をしたポワソ。
その身体は、街灯も無い闇の中で、ぼんやりと光っている。
「知らなかったよ。夜にポワソを召喚した事なんか無かったからさ。
でも、何でいきなりポワソを呼んだんだ?」
「…こうするんですよ」
言いながら小さな背に右手を添え、魔力を込めた。
彼女の力に反応して、ポワソの身体から放たれる光が強くなる。
「もう随分と暗いですし、風も強かったので、足元が危ないといけませんから」
「なるほど…灯りの代わり、ってわけか?」
「はい。幼い頃に気付いていた事では有ったのですが、
本当に灯りの代わりをして貰うのは、初めてですね」
「へえ…」
ポワソの意外な裏技に素直に感心するハヤト。
しかしそれ以上に嬉しく感じたのは、自分の事を話してくれた彼女の事。
どんなに小さくても、些細でも。
自分の事のように嬉しい。
そう思ってから、ハヤトは今更ながらに気付く。
嬉しい事も哀しい事も、総て彼女と共に。
そう、願っている自分に。
「それではお願いしますね。ポワソ」
こっくりと大きく頷いて、ふよふよと進みだしたポワソの速さにあわせ、
クラレットは歩き出す。
「行きますよ、ハヤト」
「あ、うん」
ポワソを先頭に、並んで歩くハヤトとクラレット。
ハヤトは少しの間、不思議そうにポワソと添えられたクラレットの
右手を交互に見つめていたが、不意にその手を取った。
「…あの……ハヤト?」
「俺がやるよ。これも魔力を使うんだろ?」
「…は、はい。大した事は有りませんが……」
「うん。だからさ…って?」
言いながら、空いた手を彼女がしていた様にポワソに添えると、
彼女の時より数倍強い光が目を射した。
「貴方の魔力が強い証拠ですね。もう少し、力を抑えた方がいいですよ」
「う、うん…」
掌に意識を集中すると、すううっ、と光量が絞られていく。
「貴方も魔力の扱いが上手くなりましたね」
自分の言葉に即座に反応したハヤトの手際を見て、
クラレットは小さく頷いた。
「そりゃあ、いくら何でも慣れるさ」
嫌でも上達しなければならない理由が、有った。
今はもう、思い出す事でしか存在しない理由が。
「…何たって、一応俺は誓約者みたいだしさ。
それに、先生がいいんだから、上手くならないわけがないだろ?」
な?と握ったままの手に、少しだけ力を込めて軽く引き寄せる。
「…あ。い、いいえ…」
此処で初めて、握られた手に気付いたクラレットは、
其処に視線を落とした。
身長は自分とあまり変わらない。
それなのに、自分の手を覆うこの手は、随分と違う。
大きく、温かく、硬い。
最前線で剣を振るう者の手。
傷つく事を恐れない者の手。
傷つける事を善しとしない者の手。
屈託無く笑う横顔を見上げる。
敬意と憧れと賞賛と、ほんの僅かの嫉妬を込めて。
「………………なあ、聴いてる?クラレット」
何処を歩いているのかすら、
気付かないほどに自分の考えに傾倒していた彼女は、
思わず飛び上がる。
「あっ…あ、あの……すみません、聴いていませんでした」
正直に答えると、ハヤトは肩を竦め、クラレットを覗き込んだ。
「ぼーっとしてたみたいだけど…大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫…です」
「何を考えていたんだ?」
前髪が触れる距離。
吐息が掛かる距離。
動けずに、見詰め合う。
「………はい。貴方のこの手は…」
握られたままの手を、すっ、と持ち上げて。
「とても大きくて、温かい、と」
彼の手の甲を額に押し当てる。
「くっ、クラレット!?」
顔を真っ赤に染め上げたのは、ハヤトの方。
柔らかな眼差しで見詰められていた事に、
慌てふためいていたハヤトは気付かない。
「…それで。何を仰っていたのですか?」
「あ…あああ、うん…」
早鐘の様に鳴る鼓動を押さえつけ、
顔を背けるように背後に回した。
クラレットも同じ方向へと視線を変える。
其処には横たわる、夜という名の闇。
「この風で今年のアルサックは終わっちゃったけれど、
来年もまた、見に来ようぜ、って言ったんだよ。
必ず、二人で来ような」
すでにアルサックの樹は見えなかったが、
瞼に残る景色に、ハヤトは目を細めた。
「…はい。そうですね」
「必ず、だぞ?」
「はい。必ず」
痛いほどに握られた手に視線を落とし、
それから自分を見る真摯な瞳を見返した。
「必ず、来年もまた一緒に。貴方と」
祈りと誓いを込めて、呟く。
握り返された手に、満足げにハヤトは笑った。
「さ、帰ろうか?」
「はい…」
二人が遠ざかり、闇と静寂が戻った後。
白い花びらがひらひらと舞う。
名残を惜しむかのように、ゆっくりと。
…そして、音も無く水面に降りた。
最初は真夏に書いた、雪の話だったのですが、桜の話と相成りました。
春に倉木麻衣嬢の「Time after time」を拝聴して
ハヤクラソングだー!とわめいておりました。
よく例えで、ハヤクラは春、ナツクラは夏、トウクラは冬が似合うと聞きますが、
それはやはり主人公の性質が大きいのでしょう。
クラレットさんだけなら、断然冬が似合うと思いますし。
儚くて、哀しい微笑みを浮かべるイメージが強い彼女ですが、
時には春の雪解けのような。
そんな温かさを浮かべて欲しい、と願うわけです。
ウチのハヤト君はクラレットさんが好きです。
大好きですね。自覚は無さそうですが。
大切で大切で、守りたい傍にいたい、と。
目に見える位置、手が届く場所に居ないとなんだか不安になるような。
それはクラレットさんも同じはずなのですが、
ハヤトの方がより強く出がちです。(しかも無意識)
クラレットさんが彼の手を好きなように、
ハヤトは彼女の名がとても好きです。
此処では何度呼んでいるでしょう?呼ばれた回数の倍は呼んでますよね?(笑)
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