傀儡戦争。
そう呼ばれた戦いが在った。

大悪魔と人間達の、世界総てを揺るがす戦いで、多くのものを得、それと同価値、
それ以上のたったひとつのものを失った日からひとつと半分の季節が巡る。
聖なる大樹と呼ばれる樹の下で、たった三人だけでの慎ましい生活が始まってから、
同じほどの年月が経つ。



「ネスティさん」

千ページはくだらない、分厚い本をかなりの速さで捲って行く。
視線もそれに合わせ、一時も留まる事無く、忙しなく動いている。
この年月の間に、彼は一体どれほどの本を読破しただろう。
それでも、手がかりは全く無く、すまない、と呟いて肩を落とす事が有った。
その彼の背に、柔らかい声が掛かる。
以前なら、邪魔をしてはいけない、と感じていた事も、一緒に暮らすうちにどのタイミン
グでなら声が掛けられるか、それが解って来た事も有る。
だが、それ以上に一緒に暮らして来た故の慣れ、というものは大きい。
そして、彼女の思ったとおり、ネスティは手を止め、顔を上げると不機嫌では無い事を
示すかのように薄く笑う。

「どうした?アメル」
「お買い物に行きたいので、一緒に行って欲しいんです」
「…また小麦粉か何かを買うんだな」
「はい」
「解ったよ。すぐに支度をするから、玄関で待っていてくれ」
「お願いします」

こういう会話は日常的だった。
野菜や果物など、傷みやすいものは、こまめにアメルが買いに出かけるが、保存の効く
物は二人で出掛けて纏め買いをする。
何時もの様に、もう一人の同居人ハサハに留守番を頼み、二人はファナンへと向かう。



「寒いのか?」

暑さや寒さに対する感覚がそれほど無い、融機人であるネスティは、両手を合わせ、息を
吹きかけるアメルに、最近では殆ど着用する事も無くなった赤のマントを細い肩に掛ける。

「あ、ありがとうございます。…ちゃんと防寒はして来た筈なのに、やっぱり寒いですね」

マントごと細い肩を抱かかえ身震いをしたアメルの口からは、昼間にも拘らず真っ白い吐息
が吐き出される。

「……手袋もしていないのに、防寒、とは言えないだろう?」

静土の節、三の月に入り、此処数日でぐっと肌寒くなった。
特に鬱蒼とした昼間でも殆ど陽が差し込まない、この森の中では、体感気温は更に低くなる。
それが解っているのか、解っていないのか。
何時もの格好に、厚手の上着を着込んだだけの簡単な服装に、ネスティはやれやれ、と溜息を吐く。

「あ、…はい」

赤いマントの上に置かれた、小さく柔らかな繊手は毎日の水仕事で皸ている。
寒さで真っ赤になった白い手。
その痛ましさに、ネスティは眉を顰め、ポケットから自分の手袋を取り出すと、アメルの手に押し込んだ。

「それを付けるんだ。それ以上酷くなったら大変だからな。
…まったく君という奴は、どうにも自分の事に無関心で困る」
「…ネスティさんにそのままお返ししますよ、それ」
「……確かに、な」

むぅ、と頬を膨らませながらも、すぐに、ありがとうございます、と礼を言い手袋を嵌めたアメルは、
その手をぷらぷらと振ってむくれた顔を緩ませる。

「…どうした?」

ころころと良く変わる表情に、今度は怪訝そうな顔つきになったネスティが再度問う。

「あ。いえ…あたしが嵌めると大きいなぁ。やっぱり、なんて」
「当然だろう。僕と君とでは手の大きさはまったく違う」

比べて見た事は無いけれど、一節分は確実に違うだろう。

「…そう、ですけど。何て言うのかな……こう、包まれた気分になりますよね」

胸の前で手を合わせると、ぽふっ、と柔らかい音がして温かさを主張した。
そしてそれは陽だまりの様な人を思い出させた。

屈託の無い笑顔。
広い胸。
不意に自分の名を囁く甘い声。

「そんなものなのか?」
「はい、そんなものです」

懐かしい優しさを振り切って笑う。

「白天の節も近い。寒いのも当然か。この分では初雪も近いだろう」

木々に囲まれた此処からでは空は見えないが、薄曇である事ぐらいは解る。

「そうですね。今にも降って来そうなほど寒いですから」

 ハサハちゃん、寒くしてないかしら。

漏れた白い息が棚引き、空へと溶けていく。
さくさくと落ち葉や枯れ枝を踏む音を聞きながら、ネスティが切り出す。

「近いうちに、もう一度派閥に行く」
「そうですか」
「この辺りは雪が深いからな。出入りが出来なくなる前に、本の借り出しと返却、そして総帥と
師範に今までの経緯を伝えに行こうと思う」
「…はい」

一旦押し止めた筈の想いが溢れ出す。
もう、随分とあの街へは行っていない。
随分どころか、あの戦いが終わり、此処に留まろう、と誓った日から。
何度もネスティについて行こうかと思った。
だが、何時もNOの返答を繰り返して来た。
 
 あたし達が居ない間に目を覚ましちゃったら困りますよね。

そう言って。
だけど、本当は恐れていただけだという事を彼女ははっきり自覚していた。
あの街へも数え切れないほどの思い出が有る。
その場所の何処にも、彼が居ない事を思い知る事が怖かった。
 ただ、それだけなんだ、と。
彼女の暗い顔に気付かないふりをしながら、ネスティは更に続ける。

「春になったら、君も一度行ったらいい。ギブソン先輩やミモザ先輩、それに師範も君の事を案じていた」
「…ありがとう、ございます。でも、あたしは…」

 此処から、出られない。
 籠の中の鳥のように、この世界から出ては生きていけない。

「まあ、君の判断だからな。無理は言わないよ」
「すみません…」
「それにしても早いものだな。もうすぐこの巡りも終わる。新しい年がすぐ其処まで来ているんだ」
「…………」
「なのに、まだ起きないとは、いい加減目覚めの悪い奴だな。此処まで酷いとは、この僕も知らなかった」
「ほんと、ですよね」

 あの時。
結界を壊され、力が落ちつつあるアメルと、遺跡とのアクセスにより、メルギトスに精神的
深手を負わされたネスティ。
彼女らの痛手を知った彼は、二人の制止を振り切り、独りメルギトスの下へと赴いた。
其処でどんな会話が有ったのか、どんな戦いが有ったのか。
誰も、知らない。
ただ、彼の行った方角から四色の光の帯と、空へと放たれた猛烈な白光の柱が視界を
埋め尽くし、弾けた。
 
 後には…何も残らなかった。
遺跡を形作っていた欠片のひとつ。
メルギトスを形作っていた部品のひとつ。
 
 そして。
彼が其処にいた証すら。
巨大な樹だけが在っただけ。
借りるよ、と持って行った筈の自分達の杖が、その根元にきちんと並べて置かれていただけ。

 何故だか解らない。
だが、二人にははっきりと感じ取れた。
『彼は此処に居る』と。
それから長い年月を一日も忘れる事無く待ち続けているのに、彼は未だ目覚めない。

 …目覚める保証すら無いのだけれども。

それでもそう思わないと二度と立ち上がれなくなりそうだった。
細い細い今にも切れそうな糸に、重くのしかかる自分の想いの総てを預けて。

「でも、何時起きてくるか分かりませんから。帰ってみたら、起きてるかもしれませんよ?」
「…まあ、いい。雪が深くなってから起きて来てもらっても困る。
貯蔵出来るものは出来るだけしておいた方がいい」
「そうですね。いっぱい食べますから」
「まったくだ」

 何気ないやりとり。
彼が自分達の真ん中に居た頃は無かった会話や受け答えが此処には在る。
あの頃と変わらないのは、やはり彼の話題が殆どを占めている事。
しかし、それ以外の会話も確実に増えていく。
その姿は、仲間達が見ても仲睦まじいと思うほど。





「こんにちは」

今ではもう、すっかり顔馴染みとなった店の主に、アメルはぺこり、とお辞儀をした。

「おぅ。嬢ちゃんか。久しぶりだな、おい。今日は何を買いに来たんだ?」
「え…っとですね」
「これなんか、どうだ。安くなってるよ」
「う〜ん。そうですねぇ…あ、あっちのは?」
「ああ、それはな…」

こじんまりとした店内に、数え切れないほどの色鮮やかな品が揃えられている。
アメルは目移りさせながら、いい品だけを必要な分だけ手に取って行く。
基本的に味覚音痴なネスティと、偏食が激しく小食なハサハが相手では作り勝手もいささか
落ちてしまうが、それでもやはり料理をしている時は楽しい。
この二人が思いもかけず『美味しい』と言ってくれる瞬間は何より代えがたい。
あの人だったら、もっと喜んでくれたかな、と失礼な事をふと思ってしまうのは決して口には
出来ないけれど。

「おい、アメル。何時までかかっているんだ?」

ぬぅっ、と店内に入ってきたネスティは、肩に担いでいた麻袋をどさり、と足元に置いた。
心なしか…いや、確実に不機嫌になっている。

「あ!ネスティさん?ご、ごめんなさい。すみません、これとこれとこれ、それにこれも」

腕に抱えていた分と、目をつけていた品を慌てて店主の前に差し出し、バッグの中から
財布を引っ張り出す。
そんなアメルの慌てぶりから、店主は腕を組んで彼女の行動を見守るネスティに視線を
移して肩を竦めた。

「ははぁ」

意味有り気に頷く店主に、不審な顔も隠そうとせず、冷ややかにネスティは見返す。

「あぁ。いやなに。なるほど、そうか、そうか」
「…何が、そうなんです?」

好奇の目に、更に鋭さを増したネスティの声に怯む事もなく、店主は頷き続ける。

「いやな。前から思っていたんだよ。女の子が独りにしちゃあ、随分買い込む、ってな。
…なるほど、彼氏…いや、旦那持ちだったとは…予想外だったな」
「え?!」
「なっ!?」

アメルは打たれた様に頬を赤く染め、財布を持つ手が止まる。
ネスティは突拍子もない台詞に、口を閉じる事を忘れていた。

「だがな、兄ちゃん。女の子の買い物が長いのは仕方の無い事だ。
ここはぐっと堪えて待つってのが男ってモンだろ?」
「「……………………」」

呆気に取られ、何も言えない二人のそれを無言の肯定だとでも思ったのか。
うんうん、と満足げに何度も頷く。

「オレもあと30…20年若かったら、放って置かなかったのによぉ。
こんな可愛い子を射止めるたぁ、気難しい顔してやるじゃねぇか」
「…あ、あの…」
「ぼ、僕達は別に…」
「照れるな、照れるな。いいって事よ」

 何がいいんだッ?

内心正確にツッコんでみても、渇いた喉では声に成らない。

「……あの…すみませんが、お代を…」
「おぅ、そうか。んじゃ、若い夫婦に幸あれ、という事で安くしとくよ!」
「は、はぁ…」

店主の異様なノリに思わず頭を下げたアメルと、赤らんだ顔で眉間にしわを寄せるネスティ。
二人は一瞬合った視線を、どちらからともなく気まずそうに背けた。





「それにしても、びっくりしましたね」

帰り道、ファナンの街を出たアメルが遠くなる街並みを振り返り、空に広がる厚い雲に覆われ、
どんよりとした空気を払い飛ばすかのように、くすくすっ、と笑った。

「まさか、…その。そんな風に間違われるなんて、思いもしなかったです」

思い出し、再び頬をほんのり紅く染めて、さも可笑しそうに笑い続ける。
荷物で塞がった両手の代わりに、肩口に口を押し当てるようにして、笑い声をかみ殺す。


「まあ、僕も君も一応はそういう風に見られても当然な年齢だからな」

右肩に麻袋、左手にも大きな荷物を抱えたネスティは、顔色も変えず至極当然のように
あっさりと答える。

「……そう、ですね」

そう、年を越せば、自分は二十歳に、彼は二十二になる。
ネスティの言うとおり、他人から見ればそういう関係に見られても可笑しくはないのだ。
思い至って、アメルは少し哀しくなる。

ひとつ年上だった彼。
その彼と同じ歳になり、追い越し、差は広がる。

(あたしの方がお姉さんになっちゃいましたよ?)

心の中でおどけてみても、ちくり、と刺すような痛みは消えず、波紋みたいに広がって行く。

(早く帰って来て下さい。じゃないと、あたし…)

不安になる。
何も見つからなかった。
 愛用の大剣も籠手も。
 服の切れ端も。
 流していたはずの血痕ひとつ。
 髪の毛一本すら。
 彼の残り香さえも。
必死になって幾日も探したのに、”彼”という存在が初めから無かった様に、何も。
あの時と同じ、押し潰されそうな不安が悪戯に広がる。

「アメル?」
「あ、すみません」

何時の間にか止めていた足を動かす。
森の入り口が近い。
彼の総てを包み込んでそびえる大樹が見える。

「………」

彼の元へ行きたい。
行って、この不安を拭いたい。

「アメル?大丈夫なのか?顔色が悪い」
「…そんな事、ありませんよ?」

取り繕ってはみたが、声そのものに力が無いのが自分でも良く解った。

「……そうか…などと、僕がそう言うとでも思っていたか?」

どさどさっ、と重い物が落ちる音が聞こえ、振り向いたアメルにネスティの腕が伸びた。

「え?………きゃ…っ?」

ぐいっ、と引き寄せられ、温かい何かが顔に当たる。
それがネスティの胸の中だと気付くには、暫くの時間が掛かった。

「…っ!ね、ねねねネスティさんっっ!??」
「どうした?」
「どっ、どどっどうしたじゃないですよ?」

初めて顔を埋めたネスティの胸の中は、思っていたよりずっと大きく逞しくて、湯気を上げそうな
ほど顔を赤らめたアメルは、放れようと彼の胸に手を付く。
が、彼はそれを赦さない。

「放してください」
「どうしてそんな事をしなくてはいけない?」

彼女の栗色の髪に顔を埋めたネスティは、回した手にますます力を込める。

「…っ?どうして、って…」

彼がこんな事をする自体、冗談としか思えない。
こんな冗談をする性格では無い事を良く知っているはずなのに、そんな事は完全に頭から飛んでいた。

「……本当に、君は彼の事しか考えていないのだな?」
「……?」
「同じように僕が、君に心惹かれていた、と言ったら?」
「!?」
「同じように君を想っていた、と言ったら?」
「…………ネス、ティさ…ん…?」
「君は驚くのか?笑うのか?」

思っていた以上に華奢な身体。
想像していた以上に柔らかい身体。
女性特有の、甘い香り。
弟弟子に冷静沈着、と称せられていた思考が、次第に麻痺していく。
羞恥も、心が逸る事さえ無い。
言葉、と言う形にしてしまった事で、逆に心が据わってしまった気さえする。
思うのは。

 放したくない。

ただ、それだけ。

(君は…こんな風に彼女を抱きしめた事が有るのか?)

「………あた、し…」

胸の中からくぐもった声が聞こえる。
微かに微かに、震えた声。

 冗談ですよね?

何度か喉を突いた言葉は、声に成らない。
言える訳が無い。
こんなにも、痛いほど本気の想いが伝わってくるのに。

「……ごめんな、さ…い」

 どうして、どうして。
 どうして今までずっと気付かなかったの。
 どうして今まで、欠片ほども。

自分の事ばかりを考えていた。
それがどれほどネスティを傷つけていたのか。
思うだけで、悔しさが湧き上がる。

 あたし…聖女失格、ですね。
 でも…当たり前の存在、そう思っていたから。

アメルは心の中だけで呟く。
何時も自分達の中に居て、自分達は何時も目で追っていた。
例え、彼の姿が此処になくても。
中心である事に変わりは無かったのだから。
お互いに支えだと信じていた。
信じて今日まで過ごして来たのだから。

「…ごめんなさい…」
「それはどういう意味で言ってるんだ?気付かなかった事か?
それとも、僕を拒絶する、と言う意味なのか?」
「…それ、は…っ」
「冗談だ」

何処までが冗談なのか解らなくなるほど、何時もの口調で即答する彼の心が解らない。
力を使えば、造作も無い事なのに、今のアメルにはそんな所まで考える余裕はまったく無い。

「君が彼を想っているのは、他の誰よりも僕が知っている。このひとつと半分の季節の巡りで十二分に、な」

硬直したように動けず、顔すら上げられないアメルの栗色の髪にそっと指を絡ませる。
艶やかで、引っ掛かりの無い髪を何度も何度も、優しく撫でて。
手を動かしながらネスティは中空を見上げ、深い息を吐いた。
細く長く棚引く、真っ白な息は、どんよりとした灰色の雲の中へと消えて行く。
眩しくも無いのに、細めた視界の中。
ひらり、と舞う綿帽子。

「だが」

綿帽子を震わせて紡がれた声に、ネスティは驚く。
矛盾に喘ぐ己の声に、伝えなくとも良い言葉が喉を突く事に。
こんなにも冷静で落ち着いている筈の心が、止まらない。
どんなに言葉にしても、今更もう何もかもが手遅れだと言うのに。

「どうして、彼なのだろうな。君と先に出会っていたのが、彼ではなく、僕ならば…何か違っていたのだろうか…」
「……………」

答えは返ってこない。

 当然だ。

ネスティは薄く笑う。
莫迦な事を言った己への嘲りを込めて。

 何時からだった?
彼女の存在が痛い、と思いながら目を逸らせなくなったのは。
眩しい、と思うようになったのは。
声を姿を探すようになったのは。
彼と笑い合う姿が少しだけ哀しかったのは。
密かに肩を震わせ、忍び泣く彼女の肩を抱きすくめたい、と思ったのは。

「……無力だな、僕は。君にあの日以前の笑顔を取り戻させる事も、彼を忘れさせる事も…
…君を閉じ込める、あの小さな世界からも連れ出せないとは…思い知るよ…嫌でも、な」

 彼が創った優しい世界。

あの日から時間を止めてしまった彼女には、哀しいほど相応しく、そんなものを遺した彼に、
其処までして彼女を独占する苛立ちを覚えたこの世界。
それでも…一縷の望みを願い、留まる決心をしたのも自分。

(僕にとって君は…失いたくないものであり、越えるべき壁だったのか…?)

肩越しに振り返り、自分の名を呼びながら屈託なく零す笑顔を思い出し、ゆるり、と頭を振る。
小さな綿帽子は、大きく重くなり、視界を埋め尽すほどに降り始める。
ネスティの頭も肩も、アメルの背にも、すぐにうっすらと積もった。

「……………ごめんなさい…でも、あたしは…」

掠れる声。
震える声。
だけど。
明確な答えを持った声。

「待ちたいんです…彼を」
「帰って来るなんて言わなかった。君がそう、言ったんだぞ?」

冷ややかな答えに、細い肩が小さく震えた。

「はい…でも……信じて、いますから」

其処で初めて顔を上げたアメルと視線が絡まった。
揺ぎ無い瞳はまったく以って彼に似ている。

「まったく…君らしいな」

 そんな事だから…ネスティは言いかけて口を噤んだ。
誰かを、人間なんかを信じて止まない。
愚かなほど純粋な天使。

 そんな事だから、調律者や融機人などに良い様に騙されるんだ。
 僕は、僕の一族はそんな事、とうに諦めてしまったのに。
 生まれ変わっても、変わらないのだな、君は。

「ネスティさんだって…同じですよね?」

同じ想いだからこそ、此処で一緒に待ち続けて来た。
例え、他の総てが違っていたとしても、それだけは絶対に同じ。

 そうですよね?

訴えかけて来る瞳の中に映る自分は自嘲的に笑んでいる。

「…そうだな。確かにそうだ。君にとってそうである様に、僕にとってもまた同じ。
だが、君は僕を罵らないのか?」
「え?」
「彼が居ない事を理由にこんな事をする僕を。あわよくば、君を此処から連れ出そうとしている僕を」
「…そんな事、しませんよ…」

微かに首を横に振り、瞳を伏せた。
その反応に首を傾げたネスティの顔を、もう一度真っ直ぐに見上げて。
その瞳には舞い落ちる雪さえ見えては居ない。
雪より白い息が囁きと共に漏れる。

「……でも…貴方と二人で…此処に居れたら……何か変わっていたのでしょうか…?」
「……!!」

放った質問が跳ね返る。
答えは此処に在る。だが、同じように返答が出来ない。
声に出来ない、自覚をしているネスティはただ黙すだけ。

「そうしたら…もう、こんなに苦しい想いなんかしなくて……」

 すんだんでしょうか…?

無理やり笑おうとした榛の瞳から零れた涙が、頬に落ちた雪を溶かす。
そしてそれは止め処なく流れた。

「アメル……」





 息も、出来ない。

失えない人。
大切な人。
…そう、二人とも。
どちらか一人だけ手を放す事なんか出来る筈がない。

 ネスティは縛られる。
彼への影に、彼女の光に。
 アメルは囚われる。
彼への想いに、彼の温かさに。

 息も、出来ないほど。





―しっかりしてるけど、泣き虫なんだ…支えてやってくれよな?―

最後の言葉、最後の笑顔。
記録として刻まれたそれは、決して色褪せる事は無い。

(まったく、何をしているんだ。僕は)

こんな状態を見られたら、彼に何と言われるだろう。
信用して彼女を託されたと言うのに、その本人が泣かせたとあっては。

踵を返した彼に悲痛な声を投げ掛けた時も、聖なる大樹が目前にそびえ立った時も、それに触れた瞬間も。
そして今まで数え切れないほど。
確かに、涙を流し落胆を隠さなかった。
それでも、どこかで気丈に振舞わないといけない、と言う気持ちが働いていたのか。
痛ましいくらいに、自分を支えようとしていた。

笑おうと、笑おうと。
絶対、帰って来ますよ、と。

でも、今初めて切れた気持ち。
涙が止まらない。
止めようとも思わない。
腕の中で力を失ったアメルを、ネスティは慌てて支えた。


「………でも…っ、あたしは…」

…そう、帰って来るなんて一言も言わなかった。
そんな約束を彼はしてくれなかった。

それでもあの樹の中に彼を感じ、待っていたいと思ったのは自分。
何度も何度も挫けそうになる自分を支えてこれたのは、間違いなく彼を感じて来れたから。
待つ相手が彼だからこそ、永遠のように長い毎日を繰り返して来れた。
 何時か逢える。
 何時かあの笑顔を見れる。
 何時かあの声を聴ける。
それだけを信じて。

「…そうでなければ、もう、とっくに…あたしは…」

心が折れていただろう。
認めていた。
確信していた。

これは、アルミネが人間総てに感じていた情愛なんかじゃない。
祖父よりも、兄弟たちよりも、他の仲間達より、このネスティより、誰より特別に想っていた、唯一人の人。

「ゴメンなさ、い…ネスティさん。あたしは…」

 ……なんです。あの人が。

哀しみと寒さに震える小さな唇から微かに漏れた言葉を、ネスティは聞き逃さなかった。

「…そうか」

白い吐息と共に零れたのは、安らかな声。

 そんな事は最初から解り切っている事だ。

彼女の心が自分に向けられる、最初で最後の僅かな望みも絶たれたネスティが穏やかに微笑む。

悔しさも、苛立ちも何も無い。
在るのは、こんなにも穏やかな気持ちだけ。

人間への不信を顕にし、常に距離を保とうとしていた自分を、こんなにも変えた彼女への。

感謝にも似た、深い想い。

 ああ、そうか。

ネスティは彼女の頭や肩に積もった雪を払い除けながら、納得した。
彼女への想いが、自分と彼とでは僅かだが、違う事に。

それでも。

引けをとっている、などとは毛頭思わない。

「どうして…っ、そんなに優しいんです?」

失いたくない、と思うもう一人の人を。
言葉で思い切り突き放したと言うのに。

「それでも。僕の気持ちはなんら変わらない」

 それでいいだろう?

痛いほど優しい眼差しと言葉に、止まりかけていたアメルの涙がまた溢れ出す。
ネスティの服を強く掴み、胸に顔を押し当て、耐えていた叫びが喉から迸った。

「ぅ、うあああああぁぁぁぁっっ!!」

濡れ始めた栗色の髪を優しく撫でながら、ネスティは耳元で囁いた。
自分でも驚くほど愛おしさのこもった声で。

「…言っておくが、僕は代役をするつもりはないぞ?」
「ネス、ティが悪い、ん…ですよ……こんな、事を言う…からっ。こんなに…優しい、から…っ」
「君には負けると思うがな。だが、確かにそうかもしれない」

腰に回した手に力を込め、強く彼女を引き寄せると、顔を上げたアメルと視線が絡んだ。
泣き濡れた冷たい頬に、軽く唇を落とすと、マントで覆い隠す。

「………あと半年だ」

吐息と共に吐き出された言葉は、殆ど音という形に成らない。

「それ以上は待てない。強引にでも彼女を連れて行く。それが嫌なら…」

雪化粧を施しつつある聖なる大樹を厳しい眼差しで一瞥する。
それから、ほぅ、と肩を竦めて大きな溜息を吐く。

「早く、帰って来る事だな。それが僕達の、そして君の為でもある」





目を細めて見上げた空からは、止みそうにも無い雪。

その中に、何もかもが掻き消えて行く。

泣き声も、鮮やかな真紅のマントも。
哀しみも迷いも苦しみも。
触れ合う確かで微かな温かさも。



白銀が総て覆い隠した。









初めて書いたネスアメ話でした。
この頃はまだ、どちらかと言うとネスティとアメルは
マグトリ挟んで好敵手の関係のイメージだったのですが、
それでも、二人が一緒に居る風景は良いなぁと思ってました。
そして、二人が敵意をむき出しにするのではなく、笑い合ってくれればもっと良いと。

この話の結末も頭の中ではちゃんと有るのですが‥
多分、大方の想像通り、だと思います…(ごめん、みんな)

主人公がマグナの場合、ネスアメでシリアス、トリスだとアメネスでギャグが似合いそうだな、
と思うのも変わらない考えですね。
やっぱり、ネスティだって(特にマグナ主人公時)アメルさんに
心惹かれていたって不思議じゃないと思いますし。

『彼』の居ないEDはオリジナルEDです。捏造です。あしからず。

イメージ曲は「EARTH〜木の上の方舟〜」と「ひだまりの詩」。
どちらとも優しいのに、何処か切ない響きを持つ歌。
鳴り響く鐘の音は…祝福と成り得るのでしょうか……


20040302UP



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