蒼と緑。



それが…この世界の色。








空は広く高く、青く冴え渡る。
地は緑に溢れ、様々な動物達の楽園に。
懐かしい……いや、これこそが本来在るべき姿なのだろうか。
総てが、見渡す限りの総てが、美しい一枚の絵。
そんな風景の向こう。

たったひとつ。

そう、たったひとつの例外を残したまま。








それは…遠い昔の、遙かなる遺産。
あまりにもこの世界に不釣合いな異物は朽ち果て、錆付いて脆くも崩れ落ちそうで。
異物…『彼』はずっと眠っていた。
転寝でもしているかのように。

時に深く、時に浅く。

時間は移り変わり、記憶は薄れ、身体は朽ちて行く。
もう、総ての機能が停止している『彼』を生かしているのは、思い出せない…忘れてしまった己の名。








ただ、それだけが知りたくて。
あの日、失くしてしまったもののひとつ。
光は雲を貫き、木々を艶やかに染め上げながら、彼の下に舞い降りる。
見た事も無い、白い羽毛を纏った小さな動物がきょとん、と彼を見上げている。
この理想郷で彼は古神であり、象徴だった。

………そう、『彼等』以外には。








ひゅうっ。

風が動く感覚を受けて、心を開く。
何時の間に来たのか、目の前に立った少女が此方を見上げていた。

「……………………」

これで何度目…いや、もはや数え切れないほど見た筈。
空の色よりも海の色よりも深い、蒼い髪。
切れそうなほど、冷ややかで鮮やかな紫の瞳。
ボロボロながらも、何処か懐かしい感じの衣装を纏う。
裸足の足は柔らかな草を踏み分け、もう一歩、彼に近づく。
右手で強い日差しを受けながら彼を。
蹲っているとはいえ、巨大な彼を。
哀しみを湛えた彼を。








「…………………………」

小さく口を開けたが、すぐに元の表情を取り戻す。
人間の形を模った彼の姿。
右膝を立て、座り込んだその姿は力尽きた者の様にも見える。
左腕は指を深く地中に突き立て、右腕は立てた膝の上に掌を翳す様に乗っている。
蔦が絡み、苔が茂り、肩に小鳥を休ませた彫像。
俯き加減の頭部を真っ直ぐに見上げた。








彼が、この世界で異質な存在である様に、自分もまた。
いや、彼よりも厄介な存在なのかもしれない。
今、生きている生き物だからこそ。
小さく息を吐き、スッと腕を差し出す。
ずっと前はそう、真っ白だったろう彼の脚に触れようと。
が、すぐに腕を引いた。
躊躇するその手を眼前に翳し、グッと握り締めた。








判っていた。
痛いほど。
触れる事は哀しみと。








触れる度に彼が語る昔話、それは…果ての無い戦いの日々。
空も 地も 大気さえもが灰色に染まった、氷の都市。
鋭さばかりが際立つ、天空へと伸びた建物。
夜の闇さえも消し去る光の群れ。
窶れ果てた顔で、肩をぶつけ合いながら往来する無数の人間。

そんな大地に彼は立っていた。
何時も傍らに一人の女性が居て。
彼と共に戦い、時に怒り、泣き、それ以上に良く笑う女性だった。








視線は彼の顔から自分の足元へ移る。
その先に、彼女は居た。
遥かなる蒼い大地に身体を預け、眠っている。
満足げに微笑みすら残したまま。
穏やかな寝顔を紫の瞳だけは映す事が出来た。
キュッと唇を噛み締めると強がった表情が壊れた。
困惑しきった顔で見下ろす。



あんなに穢れた土地なのに、
あんなに哀しい土地なのに、
あんなに忘れ去られた土地なのに……
 


何故?笑える?精神だけになってさえも…!



クシャっと蒼い髪を掻いた。



もっと もっと生きてみたいと思わなかったのか?



自分より僅かに年上であろう彼女へと叫んだ。








 蒼い髪と紫の瞳。二〇年と生きられぬ証。



過去の罪を 疵を今なお背負う宿命。
彼の語る昔話と女性の見せる笑みが信じられなくて、悔しくて涙が頬を伝う。
この世界は…余りにも強すぎる力が…自然のものではない力が造った。

人間の英知と傲慢。
生命も、この星すらも壊そうとした罰を悠久の時を超え、与え続ける。
彼らはこの時代を造った最後の文明。
それ故に人間に忌み嫌われた。

ただ、蒼い髪と紫の瞳を持って生まれただけであっても受け入れられない様に。
肉親にさえ疎まれて。
彼らが眠る場所は、禁忌とされ近寄る者は誰も居なくて。
自分には関係ない。
どうせ、判りきった限り或る生命ならば。








再び、ゆっくりと彼を見上げた。
眠り続ける彼女は、良くこうして愛しそうに彼を見上げていた。
自分には出来ない。
もう、残された時間の間にもそんな事は。
笑った事すらないのだから………

何年も前、初めて彼と彼女を見た時に湧き上がった怒りも悔しさも今はもう、無い。
こんな世界と自分を造ったのは、彼らではないと判り始めたから。
彼女の微笑みは灰色の時代さえも力強く生き抜いた証だと知り始めたから。
緩やかに流れる風が柔らかな蒼の髪を揺らす。
瞳の色は涙でより濃く、鮮やかに煌く。
ぐっと手の甲で涙を振り払うと、変わらぬ何時もの表情を取り戻した。








右手は胸に置き、左手はその手首を掴む。

軽く目を伏せ、しばし祈りを奉げる。
神など信じるもないのに。

黙祷を終えると背を向けた。
先程風を連れて来たと同じに、それを纏いながら。



“そうだった。…あぁ、そうだったな”



思い出した。思い出させてくれた。
あの日 あの時 あの人も目を擦りながら見上げていた事。
欠けていた記憶の欠片。
振り返り、最後に彼の名を呼んだ事。
帰れない戦いへと赴いた日。








思い出した瞬間、引きずり込むような眠気が彼を襲った。
無理もない、ただ自分の名を思い出す、其れだけの為に此処まで生きてきたのだから。








もう、彼が語る事もない。
その時、あの少女はどんな顔をするのだろう。
少し寂しさを覚えつつも、思い出させてくれた少女の背に語る。



“私は昔、〈………………〉と呼ばれていた”



少女の姿が、彼の視界から消える。
その後、彼はゆっくりと眠りに就いた。



彼の人と共に。













後書き