聴こえる……

元々僕達一族の身体は人間の形をとってはいても、その機能は人のそれを超えている。
運動能力、味覚、聴覚、視覚、嗅覚、触覚…
僕にとって前者の二つは敢えて必要とするものでも無かったから、普通の人間よりも劣っているだろう。
それでも、その他の感覚は段々と研ぎ澄まされてきているように思う。

そう、あの日から確実に……

幽かにベッドがきしむ音。
すぐにドアが開いて、そして閉まる。
重い足取りはこの部屋の前を通り過ぎ、やがて聴こえなくなる。
乱れた呼吸音と何かが擦れる音と共に。
察するに、靴もスリッパも何も履いていない素足のままで。

「…………………まったく」

重くも無かった瞼を開けると、灯り一つ無い部屋の中が夜目にもはっきりと映る。
几帳面なネスティらしくも無い、机や床に無造作に山積みされた本たちが闇夜の風景を歪ませていたが、
立ち上がった彼はそんなものに足を取られる事も無く、乱暴にマントを掴み慣れた手で羽織る。
もう一枚手に取り、腕に掛け部屋を後にしようとドアノブに手を掛けて。
ふと立ち止まる。
顔だけを窓へと向けて、口を引き結ぶ。

「………あのバカ!」

 何度言ったら分かるんだ!

苦渋に満ちた顔で吐き捨てた。










あの日。

悪夢としか喩え様の無い、最悪の結末を迎えた日から半年近くが経つ。
それでも昨日の事の様に覚えて、いや消去出来ない事実として記録に刻まれている。
同じように事実を目の当たりにしながら、認める事が出来ず立ち尽くしたマグナ。

声が嗄れ、涙が涸れるまで泣いたその後は、彼女は此処に居るのだ、と言い張り決して動こうともしなかった。
眠る事も食べる事も忘れ、ただただ何も出来なかった自分を責める日々。
不安定な心は幾度となくサモナイト石の暴走を招きかけ、その度に不本意な方法で彼を静めた。

やがて身も心も疲れ果ててしまった彼を無理矢理にゼラムへと連れ帰ったが、一向に体調は良くならない。
立つ事もままならない弱った身体は慣れた筈の旅を拒み、街の外へ出る事の出来ない彼は王都を彷徨い続ける。

ハルシェ湖畔。
再開発地区。
導きの庭園。
そして本部前。

特に本部前に行く事が多く、心配して連れ戻しに来た仲間達に、微かに口の端を歪めてマグナは笑う。

此処に居ると身近に感じるんだ、と。

虚ろな目で、左腕を鮮血に染めた凄惨な姿で。
何となくの意味を悟りながら、誰も何も言えず、ただ唇を引き結んだ。

もうすぐあの場所へ、聖地と呼ばれるあの場所へ仮の家が建つ。
彼女がいる場所へ帰りたいと願う、彼の唯ひとつの嘆願。
そして、あそこへ行けば、少しでも彼の心が癒されてくれるのではないかという、仲間達の切望の想い。
例え身体が治ったとしても、壊れていく心を見つめる事しか出来ない、そんな無念にも似た。

聖地へと赴くのは三人。
放っておけば、何日も食事を口にしない彼の世話を申し出た、彼の護衛獣。
そして、彼と同じく彼女と浅からぬ絆を持つ、ネスティ。










「マグナ」

叱咤にも似た焦りの混じる声色に、ややあってからマグナは振り返る。
生気も感情も無い、茫洋とした虚ろな瞳がネスティを捉える。

「……………ネス?」

どうしたんだ?という台詞をネスティは言わせない。
真っ直ぐにマグナに歩み寄ると、有無を言わさず持って来たコートを彼の肩に掛けた。

「………?」

驚きに目を丸くした彼の足元に、今度は履物を置き、履くように促す。

「どう、したんだよ。ネス?」
「君はバカか!?どうした、じゃないだろう!この寒空に上着も着ず、何も履かないなんて何を考えているんだ!!」
「…え?」
「え?じゃない。まさか、この雪が見えなかったわけではあるまい?」
「……ああ」

どうりで、と闇色の空を見上げながら吐き出された吐息は、すでに白くさえない。

「月や星が見えないと思った」

絶え間なく降り続く雪は、頭や肩にうっすらと積もり、頬や額に落ちてはゆっくりと消えて行く。
ネスティがつけた足跡さえも、すでに消え始めている。
だが、まったく冷たいとも寒いとも思わなかった。
それ以前に、雪が降っている事すら気づかなかった。
赤みを通り越し、青白くなった頬や足を痛々しい眼差しで見ながら、吐き出される言葉は、つい、強くなる。

「何をバカな事を。こんなに冷え切って…今の君の体力では、風邪などでは済まないんだぞ。分かっているのか?!」
「……ゴメン。でもさ…」

素直に頭を下げて謝り、口籠もる。

「此処からじゃないと、見えないんだよ」

背後へと送った視線。
其処には、深夜でも消える事の無い、無数の街の灯り。
彼女が命を賭して守ったものが、あの光の下に在る。

大好きだから、と囁く声が聴こえてくるようで。
聴こえる筈の無い声を聴くマグナの笑みはとても儚い。

「……君はバカか?!」

額に手を当て、大きく溜息を吐いてから怒鳴る声には、以前のような強さがない。

「その中にはマグナ、君も含まれているんだぞ。彼女の事を想うのなら、少しは自分を大切にしたらどうだ」
「…………でも、俺は守れなかったから」

ぱたっ。

微かな筈の音が、嫌に大きく聞こえた。
きな臭い鉄錆の匂いが鼻を衝く。
思わずネスティは顔を顰めた。

「大切な約束を、俺は守れなかった。俺が弱かったから、あんなところで力尽きてしまったから…だからダメだったんだ」

ぱたぱたたっ。

白い、白い雪の上に紅い水玉が増えていく。
夜目にもはっきりと分かるほど、鮮やかな…赤。
幾重にも巻かれた包帯を、夜着にすらなっていない服を、羽織らせた上着までもが、じわり、とその色に染まって行く。
腕を、手の甲を、指を伝い、止め処なく滴る。

「…………………」

 此処まで治ったのは奇跡だよ。

治療を施したストラの使い手はそう言った。
だが、彼女を想う度、己を責める度、傷口は開く。
涙の代わりに地面を濡らす。

「……大丈夫だよ、ネス」

急に名を呼ばれ、紅く染まる雪を見つめていたネスティは、はっと顔を上げる。

「俺の事、心配してくれてるんだろ?俺なら…大丈夫だから」

覇気の無い声。
弱った身体。
作った笑顔。
あの日から失い続けているもの。

心から思う。

どれほどまでに、彼女は彼の心の奥深くに住んでいたのだろう、と。
何時の間に、己の半身と位置づけたのだろう、と。
これほどまでに、精神と肉体を傷つけ殺しながら、想うほどの存在に。

「ゴメンな、ネス。俺がこんなんだから、大変なんだよな?昼も夜もゆっくり出来なくて」
「……良く、分かっているじゃないか」

少なからずマグナを慕う女性たちが居た。
彼の為にどんなに心を砕いても、癒すどころか、触れる事すら出来なかった。

傷ついた心に。

誰よりも長くマグナと過ごし、性格も行動も全て把握していると思っていた、兄弟子である自分も。

 なんて事だろう。

僕が、君を慕う女(ひと)たちが、君を仲間だと言ってくれるみんなが、君の周りにいるというのに、
僕たちはたった一人の女(ひと)にすら太刀打ち出来ないなんて。

 分かりきっている。

そんな事は随分前に分かっていた。

 だが、なんだろう。

この、悔しさとも言える、虚無感は。

「だけどさ、思い出しちゃうんだよ。どうしても。イヤになるくらい、思い出す。俺はずっと一緒にいたんだって」

あの日、涙が涸れるまで泣いて、そして涙を失った。
透明の液体が彼の頬を濡らす事は無く、代わりに浮かぶのは哀しい笑み。

「何処に行っても居ないんだよ。特に夜はそれを感じる。此処で、ファナンで…色んなところで色んな事を話したのに…
夢みたいだけど夢じゃない。独りだって事を思い知るんだ」

この、白い音の無い世界に儚く消えてしまいそうな微笑。

「…僕だって一日たりとて忘れた事は無い。この僕に出来無い事を君に強要などしない。
…それに、そんな事が出来る筈など無いじゃないか!?」

 出来る筈が無い。

罪、という鎖で繋がっているからじゃない。

一人の女性として想っていた。
とても、とても大切な…
言葉になんか出来ないほど、大きな存在であるのに。






「なぁ、ネス?」

 これ、何だと思う?

微苦笑を漏らしながら、赤く染まったままの手を無造作にポケットに突っ込み、取り出したもの。

「また君はそんなものを持って…」
「大丈夫だよ。暴走なんかさせないから」

調律者の力、とでもいうのだろうか。
自分のものだけでなく、彼を見舞いにやってきた仲間達が持っていたすべての、
屋敷中に有るすべてのサモナイト石を同時召喚させた事が幾度か有った。
ミニスのシルヴァーナも、容易に力を貸さないレヴァティーンも。
そのすさまじい魔力に引き摺られるかのごとく、姿を現しかけて。
その都度、フォルテたち力の有る者が当て身を落とした。

屋敷中からサモナイト石が無くなってなお、彼は石を求めた。
彼女が使っていた石を。
あの場所に彼女の物が何も残っていなかったから尚更に。

「…彼女の、だな」
「…うん」

大きな掌に収まった幾つものサモナイト石。
赤がひとつ、紫が幾つか。

「赤はさ、ハサハのだよ。俺が初めて召喚したハサハの石。
俺は鬼属性だったから、霊属性を使いこなすネスたちが羨ましかったな…」

この世の何処でもない遠くを見つめる目で、手の中の石を眺める。

ルニア。
リプシー。
プラーマ。
天使エルエル。

癒しを得意とした彼女ならではの召喚獣。
そして、殆ど使う機会を見ることが無かった、

ボワ。
ブラックラック。
レヴァティーン。

「レヴァティーン、か…」
「なんか、思い出すよな」





月の無い夜、ファナンの海岸で霊属性の総ての召喚獣に囲まれていた彼女。
その雰囲気に近づけなくて立ち尽くしていた彼の傍に、気付いた彼女はゆっくりと歩み寄って手を差し伸べてくれた。
何をしてたんだ、というやっとの質問に、答えてはくれなかったけれど。
たくさんの石を両手一杯に抱えて、お守りなんですよ、と笑った。
豊穣の天使と呼ばれたアルミネがサプレスでどれほどの存在だったか、マグナは知らない。

だけど。
その魂の欠片のひとつである彼女を同じ天使のプラーマ、エルエル、対極の悪魔ガルマザリア、
聖霊獣レヴァティーンが郷愁と慈愛の眼差しで見つめていた事を知った。
知らなくともはっきりと解るくらい、思い知らされた。

 彼女は愛されていた、と。

だからこそ、彼女を変えたこの血が妬ましく思えた。
この血に負けないように、彼女を護るのだ、とあの夜新たに誓った事も昨日のように思い出させる。





「……本当になにやってんだろうな、俺」

 何も護れなかった。
 彼女も。
 彼女の想いも。
 彼女だけを犠牲にして。
 彼女の想いだけを犠牲にして。
 自分たちは此処に居る。
 護られただけ。

これが彼女の願いだったのかもしれない、と解っているけど。
納得なんか出来るはずもない。

「……まったく。同感だ」

指から滴る赤い液体が止まった事に、ネスティはほっとしながら低い声で答えた。
癒しの召喚術を施こそうとしても、それを拒絶する身体には一切の効き目が無い。
むしろ逆効果で、傷口を広げかねない。
出来るのは、止まった後に化膿しないよう、瘡蓋のような薄い皮膜で護ってやるだけ。

ポケットから自分のサモナイト石を取り出し、石を持ったまま傷の有る部位に触れた。
じわり、と生々しい感触がネスティの手を濡らす。
眉を顰めて、袖を肩から引き千切る。

「…動くなよ」

憑依召喚術の応用でネスティが編み出した、薄い光のようなそれはマグナの肩から肘までを包む。

「……何時もありがとな。ネス」

悪戯がばれた子供のように。
決まり悪そうに笑って舌を出す。
それは、以前のような屈託ない笑みとは程遠い。
それでも。
ネスティからすれば、今までの取り繕った笑みの中ではかなりまともだとも思える笑み。

「……マグナ?」
「大丈夫だよ、ネス」

繰り返し繰り返し、毎日毎日口にしてきた言葉。
その言葉を今、微笑みながら紡ぐ。

「ちゃんと解っているから。どんなに辛くっても、俺は独りじゃない。ネスも居る。みんなも居る。
解っているんだ。だからネス。もう少し待ってくれよ。ちゃんと俺らしく…好きだ、って言って貰えた俺になるから」





 近くに寄ったから。

そんな、言い訳のような理由を持参して仲間達がやってくる。
入れ替わり立ち代わり、もう半年も経つのに、それこそ誰も居ない日なんて数えるほどしかないくらいに。
小首を傾げて笑う笑顔。
その瞳の中には何時も何処かに翳とぎこちなさが住み着いていた。

其処に映る自分と同じに。
その度に無理をさせているのだと実感する。
無理に笑顔を作り、此処を訪れさせて。
彼女を失った辛さは自分のものだけでは無いのに、思いやってくれるその優しさが申し訳なくて、痛くて。

早く安心させたい、と解っている。
解っているのに、感じる事の出来ない存在がその思いを阻んだ。

風穴が開いている心が痛む、軋む。
抗えない、重さ。
この重さを自分で支えるだけの時間が欲しい。

 でも、必ず……





「…この雪が止んだらさ…帰ろうな…?」
「君はバカか。今更そんな事に気付いてどうする。それにそんな無理をして、彼女を困らせるつもりか?」

 君を独りになんかさせない。
 
「だから、そんなふうに泣くな」

え…?と頬に手を当てるが、涙なんか流れていない。

「彼女だったら、きっとそう言うぞ」
「…………そう、だな…」

項垂れたマグナの肩を軽く叩くと、積もった雪が音も無く落ちる。
肩越しに厚い雪雲で覆われる空を見上げる。

 月も星も無い。

そんな当たり前の事をふと思い、ネスティは薄く唇を歪めた。

 まるで、僕達の心のようだ。
 君という存在が此処に無いだけで。
 何時になれば、光は差し込むのだろう。
 何時になれば、彼の心は晴れるのだろう。
 ……約束は果たすよ。

 だから、もう少し君の力を貸してくれ。

「…………ネス?」

何かが聞こえた気がして、マグナはネスティを覗き込む。
だが、どうしたんだ、と返すその顔は辛辣な台詞をのたまう何時もの表情。

「あ…いや、うん…」

 気のせい、か?

悲鳴のような、泣きそうな声が、聞いた事の無いネスティの声が聞こえたと思ったのに。

「…なんでも…ない」
「…おかしな奴だな。まあ、いい。いい加減部屋に戻れ。本当に風邪を引いても、君の面倒まで見れるほど、僕も暇じゃない」
「…ちょっとは優しくしてくれても罰は当たらないぜ?」

余りに普段どおりの会話が泣きたくなるほど嬉しくて、そしてやはり多少腹が立ったマグナは口を尖らせて言い返した。
ネスティは、ほう?と首を傾げ、顎に手を当て暫く何かを考えていたが、にやり、と不遜な笑みを浮かべる。
マグナでなくとも、前言撤回したくなるようなそれ。

「ならば、昔のように君が寝付くまで子守唄を歌ってやろうか?」
「…あ!!?」

マグナの顔に始めて熱が上る。

「眠れない、と言う君に、良く歌ってやったろう?」
「い、一度だけだろ?!」
「そうだったか?」
「…………〜〜っ!」

どう言っても言い包められる。決して勝てそうにはない。
喉まで出掛かった音を必死に飲み込み、唇を噛んだ。

「もういいよ。お休み、ネス」
「ちゃんと身体を拭いて、着替えるのを忘れるなよ」
「…解ってるよ。まったく、何時までも子ども扱いするなよな」
「実際、子供じゃないか」
「あのな……っ?」

唐突に気付く。
彼が居るからこそ、自分はまだ正気を保てている事に。
自分を見る濃紺の瞳は限りなく優しくて、切ない。
雪でぐっしょりと濡れた癖毛をくしゃくしゃと撫で回す手は乱暴で温かい。

(………………)

召喚術で施された保護膜を見つめるマグナの目に初めて光が戻る。
それに気付き、息を呑んだネスティに、肩を竦めてマグナは笑う。

「…もう、戻ろうぜ?ネスまで風邪を引いちまう」
「あ、ああ…」

一瞬遅れて何かが込み上げてくる。
それはネスティの口の端に僅かな笑みを齎し、ばぁん、とマグナの背中で響いた音に表れた。

「…いっ、ってぇ〜!!??なにすんだよ、ネス?」

もっともな批難を余裕でかわし、マグナを追い抜きながら、自分でも驚くほどの会心の笑みを浮かべて言った。

さも、おどけて。

「さぁな?自分の胸に聴いてみろ?」





テラスから中に入った二人を見送った空は何時の間にか雪が止み、雲が切れ始める。
月も星も見える日はそんなに遠くないだろう。



今日は、その最初の日。








オフラインで出した「月光下」それの1話のマグアメVer.です。
あれを持っている方、ってきっといらっしゃらないだろうケド、お持ちの方はどうぞ、間違い探しを。
…殆ど流れ的には同じなので(苦笑)
このサイトでは初めてと思われるマグナとネスティの二人だけの会話です。
難しかったけど、なかなかに面白かったです。
…次はネスティとアメルさんの話かぁ。
「月光下」とどう変わってくるか、自分でちょっと楽しみ(苦)


20041012UP



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