「行ってきます」
早朝の住宅街。
まだ行き交う人も無い道へと飛び出す影がひとつ。
4月22日、AM6時12分。
春も終わり、夏の足音を急速に身近に感じる季節。
だが、まだ朝夕は涼しく、朝練を兼ねて学校まで走っていくにはむしろ心地がいい。
勇人は、とんとん、とアスファルトを蹴り、靴を履き直すと大きく息を吸う。
そして軽やかに走り出す。
(やっぱり、ちょっと早く出すぎちまったか…?)
そう思ったのは、何時も通る美容院の前。
掲げてある時計を見て、スピードを落とした。
いつもより20分は早い。
ゆっくりと美容院の前を過ぎ、2件隣りのタバコ屋の前で止まる。
ぐんっ、と背伸びをすると、大きなあくびまでもがついて来た。
眠い。
それはそのはず。
こんなに早く家を出るからって、眠る時間が早くなったわけでもない。
夜、喧騒から解き放たれ独りになった瞬間、あるいは星や月を見上げた時。
どうしても、思い出す事がある。
涙が滲んだ目をごしごしとこすって、開けた視界に広がるくすんだ世界。
目に眩しい色の若葉も、彼の目にはまるでサングラスや灰色のファイル越しのように確かな色を持たない。
この世界総てが。
原因は解っている。
比べているのだ、あの色鮮やかな世界と。
決断し、飛び出したのは自分なのに。
振り切るように首を強く横に振る。
それから自販でスポーツ飲料を買うと、頬に押し付けた。
痛いほどの冷たさが、目覚めを促す。
「仕方が無い。もう、どうしようもない」
ぷしっ。
勢いよくフタを開けると、喉の奥へと流し込む。
それからゆっくりと歩を進め始めた。
それは、高校ではなく、昔通っていた小学校へと続く道。
時間が在った所為かもしれない。
本当に何となく、母校への緩やかな坂道を登りながら、勇人は思う。
あの世界に未練が有るのは、本当だよな。
俺はここへ帰りたい、と思いながら、このままでもいいかもしれない、って思っていた。
忘れられる筈がない。忘れたい訳でもない。
でも、もう仕方が無い。どうしようもないんだ。
また、この世界で生きていくしかないんだ。
そこまで考えて、解らなくなる。
どうしてそこまで、あの世界に思い入れを持っているんだろう、と。
何かが自分をあの世界に今でも固執させる。
こんなにも、こんなにも。
それは解るのに。
それが何だか解らない。
じゃりっ。
砂を噛む足音に、勇人は顔を上げる。
「…懐かしいな」
いつの間にか、小学校の校庭に入っていた勇人は意外に小さい運動場を順に見渡す。
鉄棒、ブランコ、うんていにジャングルジム、タイヤで作った跳び箱。
何も変わっていない。
だが、その真ん中に陣取っていたすべり台と登り棒が付いていた大きなジャングルジムだけが無かった。
「あれ、面白かったのにな。古くなったから、壊されたのか?」
呟きながら、反対方向へ視線を変えた勇人は思わず息を呑んだ。
ごしどしと目を擦ってみる。
「…え?」
くすんだ世界。
何を見ても色鮮やかに感じない世界の中に、それだけが輝きを放っていた。
思わず駆け寄る。
似てる…
違う。
相反する思いが同時に浮かぶ。
もっと綺麗だった。
もっと色鮮やかだった。
でも…
昔は飛び上がっても届かなかった、葡萄の房のような総状花序を両手で包む。
淡く灰がかった艶やかな紫の花。
すぐに千切れてしまいそうな旗弁を指の腹で撫でてみる。
震える手で、何度も何度も。
時間も想いも忘れて、ただ、それだけを。
なんて、愛おしい。
口は小さく開いたまま。
喘ぐ。
声が出ない、息が出来ない。
微かに確かに何かを象るが、音にさえ成らない。
心臓の音が五月蝿くて、聴こえやしない。
「………ちくしょう…」
胸をかきむしる。
忘れたんじゃない。忘れたくない。忘れられない。
そんな事、出来るはずがない。
いつも想っているのに。
いつも想っていたのに。
どうして、今の今まで気付かなかったのか。
こんなにも自分の裡を占めていた事に。
その存在が、今でもあの世界に固執させている事に。
今、やっと。
これだけの日数を経て、やっと。
理解できた。
思い知った。
「バカだな。俺って」
早朝の涼やかな風が藤棚に吹き込み、花と葉がさわさわと音を立てて。
揺れ動いた花序が頬を撫でる。
優しく優しく、宥めるように。労わるように。慰めるように。
例えようのない痛みに歪んでいた勇人の顔が和らいだ。
「…ありがとう、な」
さわさわと柔らかい答えが返ってきて。
暖かな気持ちが心の中を満たしていく。
もう一度優しく両手で包んで。
そうっ、と顔を近づけて。
離れると勇人は朗らかに笑った。
ここへ帰ってきて、初めての、偽りない笑顔。
「……やべっ?!」
何気なく校庭の時計台に目を移して、勇人は現実に帰る。
もう、とっくに朝練が始まっている時間。
慌てて駆け出して…すぐに立ち止まる。
振り返り、満足そうに目を細めて。
「…また、明日来るよ。じゃ、行ってくるから」
時折ひらり、と舞い散る花びら。
その中に。
駆け出した背を穏やかに見送る、花と同じ色の瞳がそこに在った。
たおやかに、手を振って。
クラレットさーん!クラレットさんは何処ーーっ(やかましい)
姿は勿論、クラレットのクの字もないなんて…寂しいです(書いたのお前だ)
お題を見た時から、こういう内容になるとは思っていましたけど。
これしか思いつかなかった知識の薄さに泣きながら書きました。
頭では出来ていても、なかなか苦しかったです。
でも、少しでも「鈍感王」ハヤトの心情が出ていればいいのですが。
これ、「君を想う」のお題でも良かった気もしますね…
本文は「藤納戸」色です。
このお題、クラレットさんの専用でした。
(キールが藍色、ソルが胡桃色、カシスが向日葵色)
少し、寂しい話ですが…こんなんでも「ハヤクラ」でしょうか…?
20040429UP
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