かつん。
足音が変わる。
そう、此処に玄関があった。
かつんかつん。
かっかっかっ…
そう、よく覚えている。
あの部屋まではどう行けばよいか。
目など見えなくとも、もう、壁などの間仕切りが無くとも、身体に染み付いている。
此処に、部屋に入るためのドアがあって。
その向こうに在ったのは、聖域。
何歩で玉座から総てを睥睨する男の下に行けたか。
何歩のところで深く頭を垂れ、跪いていたか。
どの場所で、吐血しながら膝から崩れ落ち。
どの場所で異母兄弟が事切れたか。
右膝と右手を付いて、同じように同じ場所に跪く。
長い紫の毛先が砂利と埃にまみれた床を撫でて。
小石やガラスの破片などが、付いた手と膝を傷つける。
あの日、破壊した後の世界の王になろうとした男の、野望は。
此処で、潰えた。
他でもない、男が狂おしいまでに望んだ魔王の力で。
何もかもを破壊された。
野望も、玉座も、多くの信奉者も、巨額の投資をしたこの館も、無数の本も、儀式場も。
そして、精神と命。
生まれ育った場所。
決別した場所。
…そして、新たな決意をした場所。
床だった石畳だけが残り、後は総て瓦礫となった。
その中で、彼女は立ち上がり、目を開ける。
あの頃は一切差し込むことの無かった日の光に、眩しそうに目を細め、両手を空へと差し出す。
「…………」
彼が行ってしまった場所へと。
「俺も約束するよ。何があっても絶対に、俺は君のことを護ってみせるって!!」
茶色の瞳が真っ直ぐに自分を映している。
それを正面から受け止めて、彼女は頷いた。
「…はい。約束ですね」
「ああ。そうだな」
先に立ち上がり、ほら、と手を彼女へと差し延べ、へにゃ、と笑う。
その子供っぽくて、温かな笑顔は何度見ても見飽きることが無い。
それどころか、何時までも慣れなくて、どきどきと心が逸ってしまう。
彼が帰ってしまったら、この笑顔は永遠にこの世界から失われてしまう。
鋭い刃物が突き立つ痛みが胸に刺さる。
帰って欲しくなんかない。
ずっと、此処にいて欲しい。
でも、そんな言葉など決して口に出来ない。
彼の願いは自分の願い。
そう戒める。
大切な家族や仲間たちから引き剥がしたのは自分。
平和だった世界から、血と死が日常の世界に放り込んだのは自分。
彼を元の世界に戻す事が、犯した罪のひとつを償える瞬間。
何も言わず伸ばした繊手を力強く引っ張り、助け起こす。
「さ。明日も早いから、もう寝ようぜ」
「ええ…」
彼女の心内など何も知らない彼は、明るくそう言って踵を返す。
だが、ほんの数歩でその足は止まる。
どうしたんですか?と横から彼を覗き込んだ彼女に、正面に在る月を映している瞳が見えた。
自分の声などまったく届いていないのか。
微動だにせず、ただ月を見上げる彼。
その瞳は虚ろのようで、そしてひどく真摯で先程とは違う痛みが彼女の心を軋ませる。
沈黙に耐えられず、あの、と大きな背に手を添えると、やっと気が付いたように振り向いて笑った。
何時もの、さっきまでの柔らかなそれとは明らかに違う。
今にも泣き出しそうな、あまりに切ない顔。
「…あの…?」
「………あの、さ」
紡ぎだされた言葉も、小さく微かで、こんなに近くに居ても聞き取れない。
「……居るから」
目を閉じて、数秒躊躇ったのち、彼は言った。
「…え?」
「居るよ。……俺は…此処に、居るから」
その意味が解らず、目を瞬かせた彼女から、再び空へと視線を移して呟く。
「………だから、覚えていてくれ」
立ち上がることも忘れ、彼女は目の前の光景を凝視していた。
月を背景に佇む影。
真横に広がる巨大な羽は、自分の髪と同じ紫。
闇の中に光る瞳は金色。
腕をだらり、と下げ、隙だらけの身体からは圧倒的な魔力が迸っていた。
その力に間近で晒されて、彼女は息をすることすら困難で喘ぐ。
それでも、瞳だけは真っ直ぐに、彼を離さない。
カツン。
靴から突き出たツメが石畳を鳴らす。
カツン。
たった二歩近づかれただけで、内臓の奥から吐き気がこみ上げる。
それを必死に飲み込み、金色の瞳を見つめ続けた。
此処ではない、何処か遠くを見る眼差し、それは彼が自分の世界を語ってくれる時に見せた、
郷愁のそれに酷似している。
逃げろ。
仲間たちがそう叫んでいるのが遠くに聞こえる。
どうして?
彼から逃げ出す必要など、何も無い。
そこで初めて、彼と視線が絡まる。
細い瞳孔をもっともっと細めて、興味深そうに自分を映す金色の瞳の中に、闇が見えた。
だが、それだけ。
総てを睥睨しながら、目の前に居る自分も、このリィンバウムという名の世界も、これっぽっちも
映ってはいない。
胸が押し潰されそうな魔力に抗いながら、彼女は両手を差し出す。
名前を呼べない代わりに。
彼は右腕を伸ばす。
立ち上がることの出来ない彼女の頭上に。
あの手が触れたら。
自分は容易く壊れるだろう。
痛みを感じる暇も無いくらい、容易く、脆く。
死を受け入れたわけでもない。
望んだわけでもない。
ただ、本当の事を思っただけ。
だが、その手は届く事は無かった。
己の顔に添えて引き抜かれると、長い爪が残した2筋の傷。
一度閉じ、再び開かれた彼の目に、彼女は自分の勘が正しかったことを確信する。
此処に居るのは、間違いなく彼。
爪や羽が生えようとも。
瞳の色が変わろうとも。
未だに震える四肢と喉を叱咤する。
―此処に、居るから―
立ち上がりたい。
名前を呼びたい。
―だから、―
抱き止めて放したくないのに。
まだ、伝えてない事が山のように有るのに。
―覚えていてくれ―
どうして、何ひとつ叶わないのですか?!
爪が割れるのも構わず、硬い石畳を強く掻き毟る。
己への憤慨から溢れる涙は彼女の瞳をより鮮やかに染め上げる。
そんな彼女を見下ろす彼の唇が小さく開かれ、あまりに小さくか細い声が確かに自分を呼んだ。
「………ク。…ラ、…………レッ…ト…?」
太く、幾重にもくぐもった彼の物ではない彼の声。
そして、その後に。
これこそが幻聴なのだろうか。
彼女は自分の耳を疑う。
―…頼むから、泣かないでくれ―
「…!!」
あの、声で。
鮮烈に頭の中に届いたそれに、思わず顔を跳ね上げた彼女の前で、巨大な羽がゆるり、とはためく。
ふわり、と彼の身体が浮くのと、震えていた脚に力が戻り飛び出そうとしたのは、ほぼ同時。
だが、その手は彼を掴めず。
だが、その声は彼に届かず。
彼女の声だけが虚しく響いた。
「ハヤトーーーーーっっ!!!」
「……あれから、どれぐらい経ったのでしょう…」
既に日は落ち、枯れ果てた樹々の隙間から、今度は月の光が照らす。
瓦礫に座り、彫像のように動かず、ただ目を閉じ、耳を欹て、心を大気に解き放っていた彼女が、面を上げた。
その表情を彩るのは、後悔でも、悲しみでも、怒りでも、焦りでもなく。
心穏やかな、笑み。
「…でも。私には解ります。貴方はあの時の約束を守って下さっているのだと」
異世界でもなく、サプレスでもなく。
このリィンバウムに、他でもない、自分のいる空の上に。
昼間と同じように、両手を空へと掲げる。
「…貴方が。誓約者で在っても、魔王で在っても。なんら、私には関係ありません。貴方は、貴方なのですから。
……貴方を想います。ずっと、ずっと…」
此処に、貴方が居る限り。
此処に、私が在る限り。
強がりではない、本心からの祈りにも似た言葉は、静まり返った空間に優しく流れていく。
やがて、フラットに帰る為に、立ち上がり踵を返した彼女は、ふ、と一点で視線を止める。
そして彼の為だけの、至上の笑みを零して囁いた。
「……また、逢って下さいね?」
このお題を見た瞬間から、何故か魔王EDのイメージだけが沸き起こって。
それに忠実に書いてみました…
こ、こういうのはハヤクラファンにはあまり嬉しくない内容なのでしょうか、やはり。
少しだけ迷いましたが、大体は思う様に書けたのではないかと。
20041007UP
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